その土地に暮らし、記録する。
映像作家「小森はるか」さん
ものづくり
2026.09.30
東日本大震災後の陸前高田市を記録した『息の跡』、新潟水俣病の被害者を支え続けている旗野秀人さんを追った『春、阿賀の岸辺にて』などを手掛けた、映像作家の「小森はるか」さん。人や土地と深く関わり、その人の暮らしや町の様子を映しています。東北へボランティアに向かったことをきっかけに、記録することの意味や人を撮ることへの葛藤と向き合ってきました。小森さんがこれまで歩んできた道のりと、映像を通して伝えたい思いを聞きました。
小森はるか
Haruka Komori
1989年静岡県生まれ。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科を卒業後、同大学院を修了。大学在学中に専門学校に通い映像制作を学ぶ。2012年から岩手県陸前高田市に移住。地域の人々と暮らしながら撮影を続け、2016年に劇場公開された『息の跡』は海外からも注目を集めた。2022年に新潟市へ移り、2025年には『春、阿賀の岸辺にて』が公開。
友達とふたり、ボランティアへ。
記録することが人との関わり方に。
――小森さんといえば、ドキュメンタリー作品ですね。
小森さん:学生時代は、フィクションを作りたかったんです。でも大学4年生の春休み、卒業制作を終え、大学院への進学が決まっていたので、バイトも辞めて「自由気ままな春休みにしよう」と思っていたところに東日本大震災が発生して。今まで通りの日常を送る気にはなれずにいたときに、同級生の瀬尾さんに「一緒にボランティアに行かないか」と誘われて、ふたりでレンタカーを借りて東北にボランティアに行きました。宮城、福島、岩手、青森と沿岸部をまわり、泥かきや避難所の支援などをしました。
――大学生が、おふたりで。
小森さん:でも泥かきをしようにも、私たちではパワー不足で役に立ちません。それで、地元の方のお話に耳を傾けることなら、少しは役に立てるかもしれない、と思って。あるとき、おばあさんから「あなたたちカメラを持っているのだったら、私の代わりにふるさとを撮ってくれませんか」と頼まれたんです。
――近い距離感でお話しされていたんだな、と想像ができました。
小森さん:大学で映像の勉強をしていましたけど、東北に入ってから一度も「撮影したい」という気持ちにはなりませんでした。でも被災された人の代わりに自分たちがそこを訪れて「記録を残す」ことができるかもしれない、という気持ちが湧いてきたんです。そのとき、被災地には報道関係の皆さんもたくさんいて。正直「カメラって暴力的なものだな」と思ってしまいました。責任ある仕事だな、と思う一方、やっぱり私は被災された人にカメラを向ける気持ちにはならなくて。
――でも、行きました?
小森さん:おおよその地名を聞いて、瀬尾さんとふたりで。結局ご本人にもう一度会うことができなかったので、撮影したものは渡せなかったんですが、でも「記録をする」という行為が自分の中でしっくりきたんです。それがきっかけで、フィクションからドキュメンタリーへと関心が移っていきました。
――実際に依頼された場所に足を運んで、カメラを回して。どんなことを感じたんでしょう?
小森さん:「記録」なので、はじめは「ぜんぶをしっかり撮ろう」と思っていたんです。でもそれは簡単にはできませんでした。何を撮影したらいいかは行ってみなければわからない。型があるわけではないから、どこをどう切り取って、何時間撮影すれば「記録したこと」になるのか、戸惑いながらもカメラを回し、そして次の町でもまた回す、と撮りためました。
――小森さんと瀬尾さん、ふたりのボランティアの役割は大きく変わったんですね。
小森さん:風景だけを記録するのではなく、お会いした方とたくさんおしゃべりして、その場での日常会話を残すこともとても大切だと思いました。大変だとか、辛いとか、悲しい語りじゃなくて、いつものように食卓もある。「やっとガスが開通した」って、笑っていたんですよね。大変な状況でもこの食卓は「あったかいな」って感じて。
――わかるような気がします。
小森さん:被災者として私たちに伝えられる姿とはまた違う暮らしが、そこには間違いなくあります。当たり前なんだけど、普通の人たちです。被災地にも「ちゃんと日常がある」ということを私は残したい、と思ったんです。

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人を撮り続けられるのか。
葛藤の中、出会った作品。
――記録の旅はどれくらい続けたんですか?
小森さん:最初は10日間くらい、次は1ヶ月後に1週間というふうに月1程度で通いました。でもだんだん、東京と東北の行き来が苦しくなってきまして。1ヶ月経つと被災地の様子は大きく変わります。季節も、人の気持ちも。ふと「何か大事なものを見落としている」と感じるようになったんです。それで、ずっとこの場所にいなければ記録できないものがあるんじゃないか、と震災の1年後に大学院を休学し、岩手県陸前高田市で暮らすことにしました。
――それが作品となり、世に出るんですね。
小森さん:けっこう時間が経ってからですけども。2016年に初めての作品『息の跡』が劇場公開されました。
――当時は劇場公開される映像を撮っている感覚はなかったと思うんです。
小森さん:はい、まったく(笑)。あの頃は、「陸前高田市で暮らすことで、ちゃんと人の機微を映せる」と思っていました。でも、引っ越しをしたら関係性がどんどん密になって、そこで暮らしている人にカメラを向けることが怖くなりました。自分も町の一員のようにいさせてもらっているのに、「被写体にしたいです」だなんて、「被災された人とそれを取材する人」に関係が逆戻りしちゃうんじゃないかとか、傷つけてしまうんじゃないかとか、そういうことをいっぱい考えて、カメラを回すことができなくなったんです。
――葛藤があったんですね。
小森さん:陸前高田市に移った年に『阿賀に生きる』(1992年公開のドキュメンタリー映画。製作陣は3年間現地に住み、住民を密着した)を観たんです。『阿賀に生きる』では、水俣病の「患者」という像を押し付けていません。川とともに豊かに生きてきた人を堂々と表現しています。私も「被災された人」ではなく、「いつも通りそこで暮らす人たち」を描こう、と思いました。それで「やっぱり人を撮ろう」と決意が固まったんです。
――いずれは映像作品として完成させようという気持ちは、当時からあったんですか?
小森さん:休学中でしたが大学院に所属していたので、修了制作を完成させる必要がありました。そのために映画を作ろう、という気持ちでいました。
――そのときの作品が、後に劇場上映されることになるんですね。
小森さん:はい(笑)。運よく「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で拾ってもらえて。そこから「こんな映画があるんだ」と知っていただき、劇場公開が決まっていきました。
――そういうふうに作品が評価されるなんて、高揚感がありますよね。
小森さん:びっくりしました。学校での評価はいまひとつだったので。2016年に劇場公開して今年で10年。ありがたいことに毎年毎年上映会を開いてもらえて、やっぱり他の作品とは違う力を持っているのかな、と思っています。今でも古びていない、リアルタイムだからわかるものじゃない映画になったんだな、と。

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カメラを持たない時間も、
豊かに。
――新潟にいらっしゃったのは、どんなご縁で?
小森さん:岩手の自宅で『阿賀に生きる』を観て、すぐにこの作品を作った人たちの話を聞きたいと、製作発起人となった旗野秀人さんと撮影監督の小林茂さんにお会いしました。新潟水俣病の被害で亡くなった人を追悼する集会には、毎年参加するようになりました。それから旗野さんのことを撮影させてもらうようになり、新潟に引っ越したんです。
――小森さんの意志の強さに驚くばかりなんですが、その根底にはどんな思いがあるんでしょう?
小森さん:私は映画を作るためだけに生きていたいとは思っていなくって。人とのお付き合いも、映画制作のためだけにしたくないんです。日常的なお手伝いをしたり、一緒に町のことを知ったり。同じ土地で暮らしを感じながら、映画を作ることを理想にしています。カメラを持たない時間も豊かにしたい、というか。
――ちなみに新潟に移る前はどちらに?
小森さん:仙台市にいました。それは、陸前高田市にずっといるかどうかを考えなくてはいけない時期があったからです。大学院を修了してからはプー太郎になっちゃうわけで。そうなると「嫁に来ないか」「就職先があるけどどうする」という話も出てくるようになったんです。陸前高田市に根を下ろす選択肢もあるな、とは思いましたけど、「私はそれをしたくてここに来たのか」と考えました。それに復興工事が加速していた時期で、新しい町を作るための大規模工事が行われていたんですけど、その状況を記録することがとてもしんどくて。住人の意に沿った復興が行われているわけではなく、国策として進む「復興」ってなんなんだろう、という怒りが止まらなかったんです。それで一度陸前高田市から離れ、仙台から通いながら撮影することを選んだんです。
――撮影を続けてきた背景には、どんな思いがあったんでしょう?
小森さん:震災から10年間は撮影し続けなくてはいけない、という使命感を背負っていたんだと思います。出会ってしまった人たち、聞いてしまった話をなかったことのように生きていくことがもうできなくなっちゃった。東北の皆さんが「伝えてほしい」という思いで話してくれたことを、私が別の人に伝えなくちゃ、と思っています。
――10年経って気持ちが変化したところもあるんでしょうか?
小森さん:東北を記録した10年、「すべてを捧げた」といってもいいくらい必死にやってきた、と思っています。その頃、旗野さんの撮影をはじめていたので、東北から離れる決心がついたんだと思います。東日本大震災のことも、それ以外の災害や戦争も伝えたいので。いろいろなかたちで日常を奪われた人たちが、その後どう生きるのか。その記録を後世に受け渡していくことに、私は力を注ぎたいんです。

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映画館でしか生まれないこと。
小森監督の信念。
――今日は「シネ・ウインド」さんでインタビューをさせていただいて、先ほど井上支配人から「小森さんのファンがたくさんいるんですよ」と伺いました。ファンの皆さんはどういう存在ですか?
小森さん:私が新潟で暮らしたのは約4年間だけなのに、こんなに私のことを知ってくださって、しかも応援してくださる方がたくさんいるなんて思ってもみませんでした。「シネ・ウインド」という劇場を愛しているファンがたくさんいます。その皆さんがそばにいることがとても心強いです。観る人と監督という関係ではなく、顔の見えるお付き合いをさせてもらっています。「シネ・ウインド」は、10年前の『息の跡』からはじまり、新作ができるたびに上映してくれている特別な場所です。
――もうひとつ、どうしても聞きたいことがあるんです。小森さんが学生だった頃と比べると、映像を観る環境は大きく変わりました。サブスクやYouTube配信が広がるなかで、ご自身の作品をどのように捉えていますか?
小森さん:私が作る映画には、説明やナレーション、テロップがありません。なので、とても不親切な映画なんです。見る人が能動的に見ようとしないとたぶんぜんぜん面白くない(笑)。でも作品を観てくれる人は、「自分も映像の中の人に会ったことがある」というような体験をして帰ってくださいます。まるでその空間に一緒にいたように。暗闇の中で大きなスクリーンで映画を見ることは、疑似的な体験かもしれないけれど、「映像の中と同じ場所にいて、同じ人に会ったんだ」という感覚を得られると私は信じています。それは、スマートフォンの小さな画面やサブスクでは起きない現象だと思っているんですね。なので私は、自分の作品をネット配信していないんです。
――そこに小森監督の意地があるんですね。
小森さん:そうすると収益が不十分だったり、認知されなかったりというマイナス面があるかな、と思ったんですけど、意外にそんなことはなくって。DVDもちゃんと売れているし、映画館でも上映してもらえています。映画でしか体験できないものがあると、観ている人たちも信じているんだと思います。

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