「民藝」って言葉、皆さんご存知でしょうか。器、織物、染物、ガラス、かごなど、昔から人が生きていくために、職人さんが手仕事で作り続けてきた生活用品のことをいいます。新潟にも、民藝の焼き物を作っている作家さんがいます。燕市国上の山奥で活動をしている「穂生窯」の井村さんと廣兼さん。今回は、おふたりにこの場所で窯を開いた理由や、どんな器を作っているのかなど、いろいろお話を聞いてきました。
穂生窯
井村 詩帆 Shiho Imura
1986年新潟市東区生まれ。栃木の益子町で焼き物の基礎を学んだのち沖縄へ行き、「読谷山焼北窯」で修業を積む。その後、沖縄で出会った廣兼さんと新潟へ戻り、2018年に燕市国上で窯を開く。
穂生窯
廣兼 史 Fumi Hirokane
1978年京都府宇治市生まれ。沖縄の芸術大学に進学し陶芸を専攻。その後、絵描きとして活動するなかで井村さんに出会い意気投合し、一緒に新潟へ移住。
――本日はよろしくお願いします。まず、おふたりが知り合ったきっかけを教えてもらえますか?
井村さん:私は19歳まで新潟市にいたんですけど、そこから栃木の益子町に行って、3年くらい焼き物の基礎を学んでいました。その後は沖縄に行って、読谷山焼北窯ってところで8年間修業をしていました。
廣兼さん:私は京都の宇治市の出身です。19歳までは地元にいて、沖縄の芸術大学に進学して、そこで陶芸を専攻していました。だけど昔から絵を描くのが好きだったこともあって、「やっぱり専攻を絵画に変えたいな」と思って大学に相談したら、「入学し直してください」って言われたんです(笑)。もう大学はやめて、絵描きとして活動することにしました。そしたら沖縄に来て20年目かな、井村さんと知り合って。
井村さん:ちょうど、私が地元に帰って独立しようと思っていたタイミングで出会って、意気投合してね。
廣兼さん:絵もやりたいけど、やっぱり土にも触りたいと思っていたんです。「新潟に帰ろうと思ってる」って言われたときは「新潟ってどこ?東北?」って感じだったんですけど(笑)。あまり考えずに決めて来ちゃいましたね。
――思い切った決断をしましたね(笑)。そもそも、おふたりが陶芸に興味を持ったきっかけはなんだったんでしょうか?
井村さん:おばあちゃんちが農家で、昔から畑仕事を手伝っていたんですよ。それでずっと土に触っていたのと、ものづくりが好きだったので、高校生になって将来を考えたときに「何か作る仕事がしたいなって」思ったんです。「農業」と「ものづくり」がくっついて、「陶芸」になったっていう感じです。
廣兼さん:自分も、大それたきっかけはなくて。やっぱ、土を触るのが好きだったんです。朝から晩まで砂場で遊んでいるような子どもで。ずっとその感覚があったから、細かい作業よりは土をこねるような作業のほうが性に合ってるなって思いました。それで大学では、たくさんある専攻の中で陶芸を選んだんです。
――それにしてもすごい場所にありますよね……。ここで窯を開くことにしたのは?
井村さん:今使っているのが「薪窯」っていう窯なんですよ。薪をくべて窯を焚くっていうやりかたなので、すごく煙が出るんです。
廣兼さん:その辺でやったら火事かと思われるくらいの煙なんですよ(笑)
――陶芸するときの煙って、焚火程度かなと思い込んでいました……(笑)。それは騒ぎになっちゃいますね。
井村さん:だから住宅があるところではまずできないんです。だけど、燕市役所に相談に行ったらすごく興味を持ってくれて。「国上なら山だしできるんじゃないか」って言って、この場所を紹介してくれたんです。それから木の伐採をして、小屋を立ててもらって、自分たちで窯を作りました。
――窯の作り方は修行先で教わっていたんですか?
井村さん:まったく教わっていませんでした。でも作れるんじゃないかって思って、やってみたらできたんです(笑)
――すごい!実際に焚いてみてどうでしたか?
廣兼さん:それが、1年くらいは上手く焚けなかったんです。窯って生き物みたいなもので、その性質を理解するまでにすごい時間かかって。
――思った通りに焼き上がらないとか?
井村さん:それ以前ですね。窯が十分な温度まで上がりきらずに、半分焼けてないとかいうこともありました。
廣兼さん:釉薬(うわぐすり)っていうガラス質のものを器に塗っているんですけど、これが溶けずに、もう持てないくらいガサガサで出てきちゃったんです。
――せっかく作ったものが……。悲しいですね。
井村さん:でも、「窯焚き日誌」みたいな感じで、毎回の窯焚きの結果をインスタに上げていたんですよ。そしたら、それを読んでくれた全国の焼き物の大先輩がDMを送ってくださって、ものすごく細かいところまで教えてくださったんです。それを試したらうまくいって。
――思わぬところから救いの手が差しのべられたわけですね。
廣兼さん:薪窯って一筋縄じゃいかなくって、どこの窯もきっと苦労されているので、上手くいかない気持ちを分かってくれる人が多いんです。私たちもこの先同じような人たちを見つけたら、胸が締めつけられると思います(笑)
――器づくりの工程の中で一番大変なのは、やっぱり窯焚きですか?
井村さん:そうですね。窯焚きがいちばん命がけです。バーナーで6時間窯を温めて、そこから薪を入れはじめてから、朝まで窯につきっきりになるんです。うちの窯の場合、交代で寝ることもできないんですよ。
――そんなにハードだとは知りませんでした。
廣兼さん:上手くいかなかったときは、ほんとにしんどかったね。寝てないから体力は落ちるし、気持ちも弱ってくるし。でも今は自分たちの精神力も上がったし、窯も仲良くしてくれるようになりましたよ。
――窯にもいろんな種類がありますよね。その中で、それだけ大変な薪窯で焚くことこだわったのはどうしてですか?
井村さん:沖縄の修行先で使っていたのが薪窯だったんですよ。電気窯とかガス窯とかもあって、もちろんそういうもので焚いた素敵な焼き物もあるんですけど、やっぱり薪窯にしか出せない味わいがあると思っています。
廣兼さん:窯の中で何時間も炎にあたったり、薪の灰をかぶったり、そこをくぐって出てきた器ならではの魅力があるんです。
井村さん:「窯変」(ようへん)っていって、器の景色が変わるんですよね。釉薬をかけて、こういう色で出てくるはずって思って窯に入れても、まったく違う色になったり、思いもしないような景色になって出てくるんです。
――へ~!それは面白いですね。
井村さん:工場で同じものを量産するっていうやり方もある時代の中で、恐ろしく手間がかかったとしても、昔ながらのやり方で、新潟の自然からもらうもので器を作っていたいんです。
廣兼さん:例えばこのカップを自然の中に放りこんだとしても、景色に溶け込むような器作りをしたくて。土着的な感じというか。
――新潟で採れた材料を使って作っているんですか?
廣兼さん:薪はもちろん、釉薬も新潟のものです。土はこの辺りのものを使ったり、安田瓦の土を安く譲ってもらったりしています。採ってきたそのままの状態の土から不純物を取り除く作業は私たちがやっているんですけど。めちゃくちゃ時代に逆行してるよね(笑)
井村さん:炊飯器がある時代に、私たちは釜でお米を炊いているみたいなことですよ。なんなら釜から作ってるみたいな(笑)。「なんでそんな手間のかかることを」って思われるだろうけど、「やりたいからやってる」としかね。
――「穂生窯」ではどういう焼き物を作っているんですか?
井村さん:お皿、カップ、湯飲みとか、普段の生活で使うものを作っています。
廣兼さん:使ってもらうことを大事にしているので。このマグカップなら、器だけじゃなくて、そこにコーヒーが入って初めて完成するみたいな。器に物が入る余地を持っていたいっていうのはありますね。
井村さん:料理が入る器だよね。装飾もできるだけしないで、器側をどれだけ削れるかっていう引き算をしている感覚です。
廣兼さん:あとは飽きがこなくて使い続けたくなるような、手に取りたくなるような器を作っていたいですね。
――そういえば、器って使えば使うほど変化していくって聞いたんですけど、本当ですか?
井村さん:そうなんですよ。不思議なことに、その人の生活の仕方とかによって、器の表情がぜんぜん違っていくんです。馴染んでくるっていうか。
廣兼さん:そういうのを見ると「わ~育ってる!」って感じるので嬉しいです。
――私も自分の器を育ててみたくなっちゃいました。最後に、今後の目標を教えてください。
井村さん:私は、ずっと続けていくことかな。大きいことをやりたいっていう気持ちはあんまりなくて、今と同じ仕事を一生やりたいですね。
廣兼さん:自分もそうだな。窯を焚くたびに新しいことに挑戦するっていうのはもちろんなんですけど。自分も周りも、いろいろ変化せざるを得ない中で作り続けていくことで、その積み重ねが器にも出てくるんですよね。続けていくっていうのが、この仕事の良さなんじゃないかな。
穂生窯
新潟県燕市国上2970-1