時計物語

05

新潟の街を舞台にした「時計」をめぐるショートストーリー

新潟の“街と時間”をテーマに、毎月1回1話完結で物語をつむぐ新連載シリーズ『時計物語 NIIGATA TOWN STORIES』。人と時計のショートストーリーを、スリーク・アンバサダーのDJ島村仁さんによるリーディングをお楽しみいただけます。新潟の街を舞台にした約7分間の物語を、ぜひ仁さんの素敵な声で堪能してください!

朗読・島村仁

島村仁 Jin SHIMAMURA

時計物語

#05 2月14日のハッピー・リタイアメント

#05

2月14日のハッピー・リタイアメント

小説・藤田雅史

そうか、今日はバレンタインデーか。

仕事帰りの深夜に立ち寄ったコンビニで、俺はようやくそのことに気がついた。途端にチョコレートの甘さが口の中に広がる。何かひとつ売れ残りのチョコでも、と思ったが、すでにレジを済ませた後だったのであきらめた。

若い頃は妻と娘から毎年チョコをもらっていた。しかし五十を過ぎてからは受け取った記憶がない。ふたりとも、俺が甘党だと知っているのに、ある時期を境に何もくれなくなった。

この春、俺は会社の代表取締役から退任する。二十歳で前の会社に就職し、三十で独立。ずっと仕事に生きた半世紀だった。身体はもう、とっくに限界を越えている。

やすらぎ堤のいつもの帰り道を歩きながらちらりと腕時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。退任間近でもこんなに残業をしている自分が少し可笑しい。無理をしているわけではなく、仕事が好きなのだ。本当に仕事一筋の人生だった。

たいした趣味もない。唯一の道楽といえるのが、腕時計のコレクションだ。スーツに似合う時計が好きで、仕事で何かを達成するたびに、一本、また一本と買い足した。高価なものでも躊躇はしなかった。腕時計が増えていくごとに、俺は自分自身を誇らしく思うことができた。

でもあまたのコレクションの中でいちばん大切にしているのは、仕事のそれではない。二十数年前、娘が生まれた日に買った時計だ。四十を過ぎてようやくできた子だった。

夕方、会社でその知らせを受けた。病院に向かう途中、百貨店に立ち寄り、売場でいちばん美しく見えた時計を手にとった。そして、「これからの娘の時間が、どうか美しいものでありますように」と心から祈った。

そのことを、娘には言っていない。幼いときは大事な時計を玩具がわりにされるのを恐れて言わなかった。大きくなり、反抗期がきてからは、どうせ話しても喜んではくれないだろうと思うようになった。娘なんてそんなものだ。

彼女はもうすぐ結婚して家を出る。そしていよいよ来月、俺の仕事人生は終わる。終わったら、もう腕時計なんて必要なくなるのかもしれない。書斎のガラスケースに飾ってあるあのコレクションも、輝きを失うのだろうか。

「老後、か……」

仕事なしの人生が、正直、見えない。何をすればいいのか。どんな自分であればいいのか。

 

川岸町の自宅にたどり着くと、妻も娘もすでに寝静まり、家の中はひっそりとしていた。

ダイニングの明かりをつけたとき、テーブルの上に長細い小箱があるのを見つけた。

「お、今年はチョコがあるのか」

そう思って持ち上げてみると、チョコにしてはやけに重い。リボンをほどく。開けてみると、中に入っていたのは腕時計だった。

メッセージカードが添えられている。

《長い間、お仕事お疲れさまでした。これからは、こういうカジュアルな時計がいいんじゃないかしら》

見慣れた妻の字だった。その横に娘の字で《甘いものは控えめに》とある。最近チョコをくれなかったのは、やっぱり俺の健康を気遣ってのことだったんだな……。

茶色い革ベルトのシンプルな時計を、さっそく手首に巻いてみる。仕事のスーツにはどうも似合わない。でも、そのことがむしろ嬉しい。

スーツを脱ぎ、休日用のツイードのジャケットを羽織って洗面所の鏡の前に立ってみた。お洒落な腕時計をしたその男は、普段よりもいくぶん優しい顔をしている。俺はようやく、これからの暮らしが見えるような気がした。

FIN

スリーク

古町と万代に店舗を構える機械式時計と眼鏡、ファッションの専門店。カルティエやブライトリングをはじめ、ウブロ、タグホイヤー、パネライ、オメガなど高級機械式時計と、国内最高峰のグランドセイコーの計20ブランドなどを展開。人生の特別な一本に出会えるお店です。

http://www.threec.jp/

朗読

島村仁 Jin SHIMAMURA

東京都出身。ラジオDJ、YouTube番組『Threec channel』、Jin Rock Festivalオーガナイザー、TVナレーション、航空会社の機内放送など多方面で活動中。趣味は自然と接するスポーツ。

小説

藤田雅史 Masashi FUJITA

1980年新潟市生まれ。日本大学芸術学部卒。小説のほか戯曲、ラジオドラマなど執筆。著書『ラストメッセージ』。最新刊『サムシングオレンジ』が好評発売中。