かつて、コシの強い本格的な讃岐うどんと隠れ家的な居心地のよさで人気を博した「入船うどん」というお店が、新潟市中央区の海辺町(みなとタワーの近く)にありました。根強いファンのいる、地元では有名なうどん屋さんでした。しかし2015年、「入船うどん」は惜しまれながら、それまでの10年の歴史に幕をおろします。好きなうどん屋さんがなくなってしまった…がっかりと肩を落とした常連客も多かったようです。ところがその1年後、「入船うどん」は「入船家」として突如、営業を再開。人気のうどんを復活させたのは、情熱的なひとりの常連客でした。
新潟島の北の先端、巨大な「みなとタワー」の近くにその店はあります。大通りから路地を入っていくと、どんどん道が細くなりやがてみなとタワーが目の前に現れるのですが、そのすぐそば、まるでみなとタワーという名の山の麓のような場所にひっそりとたたずんでいるのが「入船家」です。店内に入ってみると、いきなり目の前に現れるのがジュースの自動販売機。でもこれ、実は食券販売機。投入口にコインを入れ、希望のメニューを選んでボタンを押すと「ガコーン」という音と共に落ちてきたのは缶ジュース…に似た木製の円柱体。この円柱の物体こそが食券なんです。お客さんはこの食券をカウンターに出し、席について、うどんが出来るのを待ちます。
「茹でたて」にこだわる「入船家」では、注文が入ってから生麺を茹でているため、うどんの提供に時間がかかることがあります。待っている間、お客さんはセルフサービスのお茶を飲んだり、雑誌や漫画を読んだり、無料レンタルされている将棋や囲碁、オセロ、トランプ、麻雀、ジェンガなどで思い思いの時間を過ごしたりするのですが、その様子はうどん店というよりなんだかカフェ、あるいはどこかの遊び場のようです。
そんな独特なスタイルの「入船家」ですが、前身は同じメニュー、スタイルの「入船うどん」という人気うどん店でした。多くの常連客が通うお店でしたが、その根強いファンの中に、現オーナー・川﨑恵さんの姿もありました。「当時は週2〜3回は通っていました。うどんが美味しかったのはもちろんですが、お店の雰囲気に癒されていたんです。過剰なサービスがなく、ほとんどがセルフサービスで、お客さんの自由度が高いというか。いい意味で放っておいてくれるお店でした。」
自然と前オーナーとも仲良くなり、世間話などもするようになりましたが、ある日、衝撃的な事実を知らされます。なんと「入船うどんが閉店する!」。閉店の理由は前オーナーの「元気なうちに遊びたい」というもの。常連客の川﨑さんは当然ショックを受けます。そんなとき、さらに驚くことに、オーナーから「『入船うどん』の跡を継がないか」といきなりの打診を受けたのでした。最初は戸惑ったものの、大好きな店がなくなってしまうことの心残り方が大きかった川﨑さん。「自分がやらねば誰がやるんだ!」という使命感に突き動かされ、「入船うどん」を受け継ぐことを決意します。こうして熱心な常連客の手によって、人気うどん店は復活することになるのです。
さっそく「入船うどん」の厨房にて修行が始まりました。「修行」といっても、けっして厳しいものではなく、うどん屋の娘が父親に教わるような感じだったそうです。 最初に教わったのはお店の経理。経理をやっているときに店が混雑してくると、店の手伝いに駆り出され、皿洗いから盛り付け、さらに受付カウンターに立ったりと大忙し。うどんを作ること(麺打ち、麺茹で)を教わったのは一番最後でした。自家製の麺を打つ作業は実はけっこうな重労働。「25kg粉の袋を持てないと仕事にならないので、力仕事な部分はあります。あと、季節によって塩の量なども変わってきますので、気温や湿度を見て分量を決めなければなりません。」 メニューも多いので、すべての種類を作れるようになるまでにけっこう時間がかかりました。
「入船うどん」は一旦閉店し、1年後に再び「入船家」として復活することになります。再開までの1年間、川﨑さんはリニューアルオープンに向けた準備に奔走します。厨房を増設し、雨漏りしていた屋根を補修。内装のリニューアル、動線を考えたホールレイアウトの変更など、小さい店ながらやらなければならないことは盛りだくさんでした。高齢者のことを考えてトイレは広くしてバリアフリー化。そのすべての作業をほとんど自分でこなした川﨑さん。建築系の図面を引いていた前職の経験とスキルが役に立ったそうです。
準備期間を経て、いよいよオープン日。宣伝は店頭に掲げた告知シートのみとささやかなものでしたが、人通りの多い場所ではないにも関わらず、クチコミがクチコミを呼び、初日は予想を超えた10人ほどのお客さんが来店。「最初に迎えた週末はもっと大変でした。30人くらいのお客さんがどっと来てくれたけど、店側がまだ慣れていないこともあって、うどんの提供が遅れてお待たせしてしまいました…。」
「前のお店で自分が好きだったところは残しつつ、さらにパワーアップしていけたらと思っています」と笑顔で話してくれた川﨑さん。「入船うどん」から引き継いだ「好きだったところ」、それはたとえば、サービスを過剰にはせずお客さんに干渉しないスタイル。そのためスタッフは必要なとき以外はカウンター内から出ません。それによってお客さんの時間やペースを大切にしているのです。一方、パワーアップしたことのひとつが「卓球コーナー」の設置。卓球台を寄付してもらったことをきっかけに始めたコーナーですが、そのレンタル代は野良猫たちの去勢手術費用に使わせてもらっているという猫好きな川﨑さんなのでした(お店の周囲にはたくさんの野良猫がのんびりと暮らしています)。
これからの「入船家」の構想が、川﨑さんの頭のなかにはたくさんあります。まず新メニューの開発。現メニューの「ギーダうどん」のような、「一風変わった」メニューを編み出すこと。ちなみに「ギーダうどん」というのは、フカヒレスープのうどんにチーズとフライドポテトが乗った不思議なモンゴル風うどんです。それから、メニューや食券販売機などをもっとお客さんが使いやすいように改良すること。あらゆる年代の方々に「入船家」の雰囲気を楽しんでもらいたい。そんな思いやりとやさしさが伝わってきました。
最後に川﨑さんから、今後の抱負を語ってもらいました。「そうですね、太く長くコシのあるうどんのような白い心で続けていけたらと思ってます(笑)。私たちが満足できないものはお客さんに提供できません。それから、私たちが楽しまなければ、お客さんにも楽しんでもらえないと思っています。楽しくやろうぜ、うどん屋!」
さぬき一番(冷・温)中盛 580円
入船うどん(冷・温)中盛 680円
新潟うどん(冷・温)中盛 680円
ぶっかけ(冷・温)中盛 680円
ギーダうどん(温)中盛 980円
入船家
川﨑 恵 Megumi Kawasaki
1987年12月生まれ
小学生の頃から建築士に憧れ、高校や専門学校で建築を学ぶ。 その後、店舗の管理・修繕の仕事をしていたが、「入船うどん」を引き継ぐ形で「入船家」をはじめる。 趣味は物を作ることで、料理、手芸、ペーパークラフト、レゴブロック、果ては猫ちぐらに至るまで色々作って来た。