ものづくりの街、燕市はさまざまな金属製品を生み出してきました。鎚起銅器に金属洋食器、ハウスウェアの他に、煙管(キセル)の生産でも知られているそうです。その煙管の作り手として埼玉県から移住してきた若者がいます。「六張煙管(ろくばりきせる)」の岩浪さんです。煙管に興味を持ったきっかけや移住の決め手など、いろいろとお話を聞いてきました。
六張煙管
岩浪 陸 Riku Iwanami
1992年埼玉県生まれ。東海大学、大学院で考古学を専攻。卒業後はフリーターをしながら煙管を学び、製作をスタート。2020年10月「六張煙管」を開業。2021年、燕市に移住。趣味は煙管集めで、500本ほど所有。
——岩浪さんが煙管に興味を持ったきっかけを教えてください。
岩浪さん:大学と大学院で考古学を学びました。昔の遺跡から、遺物として煙管が発見される場合があるんですよね。報告書をペラペラめくっていると「あ、煙管だ」って。大学の専攻と関係ないようで、でもまったく馴染みがないわけでもないんです。僕は大学時代に紙タバコを吸っていましたけど、値段が高くなっているし、人と違うことをやりたいと思うタイプなんです。大学院生のときに燕市の職人「飯塚昇」さんの煙管を24,000円で買って、使いはじめました。
——大学院を卒業されてからは、どうされたんでしょう?
岩浪さん:同期がレンタカーショップの店長だったので、そのよしみでバイトをしながら煙管を作っていました。2021年の9月に燕市に来るまではそんな感じです。
——岩浪さんのことは、「煙管作家」とご紹介してよいのでしょうか?
岩浪さん:どうですかね。僕は作家じゃなくて、煙管「張師」と自称しています。だいぶ古い呼び名ですけど、煙管を作る人は「煙管張」と言われていたみたいで。作家も職人も、今では言葉に色がつきすぎている感じがして、自分の中で「ちょっとそうじゃないんだよな」って思いがあるんですね。「張師」の方がニュートラルな感じがするし、誠実なのかなと。
——燕市に移住されたのはどうして?
岩浪さん:最初の入り口が飯塚さんの煙管というのもあって、調べるうちに「燕市は全国有数の煙管生産地である」と知りました。江戸時代は、全国どの地域にも煙管職人がいたんですよね。ただ地場産業として大規模で生産されている地域はそれほど多くなくて。そのひとつが燕市でした。江戸時代後半から、煙管の産地としてけっこう有名だったんですよ。
——それは知りませんでした。
岩浪さん:当時は手作りが主流でした。大正に入って、燕市ではどこよりも先に手回しのプレス機で量産をはじめます。現在まで「煙管産業」が残っている地域は燕市しかありません。
——さすが考古学を学んでいらしただけあって、歴史に詳しいですね。
岩浪さん:そういうところもあるのかな。学生時代は不真面目でしたよ(笑)。僕は美大や芸大を卒業しているわけじゃないので、そういう分野の人と一緒にスタートしても劣っちゃうんです。だから歴史とかの情報を含めて総合的に知識を得て、それを伝えたいと思っています。「煙管の専門家」であれば、さまざまなことを伝えられますし、それが僕の役割だろうと思うんです。
——「専門家」の道を進もうと思ったのはどうしてでしょう?
岩浪さん:大学院修了後、就職しませんでした。やりたいことが見つからないし、スキルもないし、どうしようって気持ちでいて。煙管を作りはじめて3ヶ月後くらいの頃、「ネットで販売してみませんか?」という話をいただきました。それで「商売になるんだったら、もうこれでやるしかないか」ってこの道を選んだんです。
——でもよく「煙管を作ってみよう」と思いましたね。その発想がすごい。
岩浪さん:大学院を出てすぐの頃だったと思いますけど、とある資料館に燕市の煙管コレクションを観に行ったんです。「すげぇ、かっこいいな」と思いました。製造工程の模型みたいなものも展示してあったんですよね。それを見る限り、パーツも少ないし簡単そうに見えて。「何の技術もないけど、できそうだぞ」っていうのもきっかけですね。
——作り方はどうやって勉強したんですか?
岩浪さん:個人的に煙管を製作している人が、ネットに作り方をあげているんですよ。それを見て独学で勉強しました。
——燕市には、今も煙管を製作されている方が何名もいるんですか?
岩浪さん:飯塚さんと僕だけです。展示会に向けて製作される方が他に数名いるでしょうか。
——じゃあ、飯塚さんは「煙管に関心を持つ若者が県外から来た」ってすごく喜ばれたのでは? 「よく来てくれた」って。
岩浪さん:そう言ってくれましたね(笑)。正式な弟子ではないですけど、「いつでも遊びに来たらいいよ」と喜んでくれています。
——飯塚さんが作られた煙管からはじまって、今はその巨匠の近くで煙管を作っているなんて、岩浪さんにとって大きな変化があった数年でしたね。
岩浪さん:確かにそうですね。でも自分の中で「すごいことになった」って感じもしないかな。「煙管に携わるんだったら、こうなるしかない」っていうか、煙管の技術を教えられるのは飯塚さんしかいないので、必然的に燕で暮らすことになったような気がします。でも最初から「燕に行きたい」って意思があったわけじゃないんです。
——あ、そうなんですか。
岩浪さん:「煙管フェア」っていうイベントがあって、その会場の向かいに老舗のタバコ屋さんがあるんですよ。そのお店の常連がたまたま僕の知り合いで「煙管といえば若い愛好家がいる」と「煙管フェア」に参加していた燕の会社さんと僕をつなげてくれたんです。
——そんな出会いからはじまったんですね。実際に燕に住んで、真っ正面から煙管と向き合う生活はどうですか?
岩浪さん:「燕って、本当に煙管の街だったんだ」っていう痕跡が、いたるところにあるんです。ご近所さんも昔煙管を作っていたとか、そういう話がたくさん聞けます。引っ越して来てよかったなって心底思いますね。
——煙管とまったく無縁の場所ではそうはいきませんもんね。
岩浪さん:少なくとも埼玉では、考えられないですね。それに関東って変わった取り組みをしている人がたくさんいるので、埋もれちゃうと思うんです。燕で煙管に携わっているから目立つし、歴史的な背景もあって、応援してくれる人もいます。そういう環境はここに来なければ絶対に得られないものでした。
——製作以外には、どんなことをされているんでしょう。
岩浪さん:まだかたちに残せてはいないんですけど、今年中に文章を書いて伝えていくようなことをやりたいと思っています。せっかく煙管のコレクションがあるので、それを目録として公開するだけでも意義があると思うんですよ。
——間違いないと思います。ぜひ進めていただきたいです。
岩浪さん:たくさん煙管を収集する中で、地域性があることがわかってきました。先日は、煙管を見るためだけに鹿児島に行ってきて。そういう成果もなるべく残していきたいですね。
——イベント参加は考えていますか?
岩浪さん:それもひとつの方法ですよね。煙管を販売する以外にもワークショップ形式で煙管を作ってもらうとか、燕の歴史を伝えるとか、小さくても普及活動はしていくつもりです。
——今後は、どんな活動をするお考えでしょう?
岩浪さん:この活動をとにかく続けることが大事だろうと思っていて。飯塚さん含めて、職人さんはご高齢です。僕は昔っぽい煙管を忠実に製作する方向で活動しているので、伝統というと大げさかもしれないけど、そういう役割を引き継ぐ立場なのかもしれないなと思っています。とにかく燕でずっと煙管を作り続けたいですね。
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