子どもにとってメガネという存在は格好が悪くて、ちょっと敬遠しがちなアイテム。のび太君とか、マスオさんとか、どこかパッとしない一面を持ち合わせたキャラクターが先に立ってしまっているからかもしれません。しかし、見附市内にある「Optical Inada 稲田眼鏡店(オプティカルイナダ)」に並んだメガネは、ひと味違います。視力を補正するための補正器具としてはもちろん、ファッションアイテムとしての要素も提案してくれます。変わった入口からメガネ業界へやってきた3代目のいな田さんに、「異端児」と言われる由縁を含め、メガネに対する考えをお聞きしました。
Optical Inada 稲田眼鏡店
いな田 ひろ志 Hiroshi Inada
1978年新潟生まれ。長岡向陵高校卒業後、都内の音楽系専門学校へ進学。後にアパレルショップでの出会いをキッカケに眼鏡職人の道へ。現在は実家である眼鏡店の3代目として活躍。
――今日は、よろしくお願いします。「Optical Inada 稲田眼鏡店」は、創業してからどのくらいなんですか?
いな田さん:よろしくお願いします。しっかりとした記録は残っていなくて…たぶん1935年の創業だと思います。もっと昔からかも。初代の祖父は時計専門店を営んでいましたけど、父の代になってメガネ専門店へと業態を変えました。
――創業から数えるとかなりの年数ですね。いな田さんは、昔からメガネが好きでした?
いな田さん:ん~…正直、子どもの頃は、負のイメージが強かったですね。かけなくてもいいなら、メガネなんてかけたくなかったじゃないですか?でも、20歳を過ぎてからはファッションアイテムのひとつとして捉えられて、カッコイイと思えるようになりました。
――そう思えるようになったキッカケは?
いな田さん:高校を卒業してから、東京の専門学校に通う傍ら、バンド活動をしていたんです。ギターボーカルとDJを合わせた、今でいうミクスチャーバンドってやつを。その時代にアパレルショップでも働きはじめたんですね。今でこそ目にすることが多くなったブランド「DITA(ディータ)」なんかも扱っていて。その「DITA」に、ロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」のカート・コバーンがかけていそうなサングラスを見つけて。それからは広い意味でのメガネってカッコイイなと思いはじめました。
――実際にメガネ業界に入られたのは、どういったタイミングでしたか?
いな田さん:Web関係の仕事をしていた時期があって、元々、バンドのライブ用フライヤーなどを手掛けていたんですけど、そのときしっかりと専用ソフトを学んでモノづくりに興味が湧いたんです。何かできないかと考えて、行き着いた先が家業であるメガネ。フレームを作ってみたい、そんな衝動に駆られました。
――それでメガネだったんですね。でも、アパレルショップで働かれていたのなら、ファッションデザイナーの道もあったのでは。
いな田さん:確かにそうですね。働いていたアパレルショップではオリジナルブランドをしていたせいもあって、とにかく感性のすごい、ファッションの変態ばかりが周りにいたんです。僕もファッションが好きで、ちょっとくらいは自信とプライドもありましたけど、その中では凡人。だから、ファッションデザイナーをはじめとした洋服への選択肢はありませんでしたね。
――ファッションの変態(笑)。凄そうな人たちですね。メガネフレームを作りたいって、まずはじめはどうしたんですか?
いな田さん:メガネのプロである父に「誰かメガネフレームを作れる人を教えて欲しい」と頼みました。そして、会いに行って。向かった先は世界シェアの1/3を担う、海外の有名ブランドも多く生産している福井県鯖江市。メガネの街です。そこの、ある工場で学ばせてもらえることになりました。
――なるほど。メガネ工場で働きはじめたんですね。
いな田さん:いえ、Web関係の仕事をしながら、2ヶ月に1回のペースで2~3日滞在させてもらって、メガネのフレーム作りを学びました。2年間くらい。教えてくれていた職人の息子と一緒にノウハウを受け継いで、切磋琢磨していましたね。彼とは今でも親交があって、毎年、一緒に雪山へ滑りに行くんです。
――同じ釜の飯を食った仲間ですね。2年という期間で、最も衝撃的だったことは何ですか?
いな田さん:初めて職人の技術に驚かされた瞬間ですね。あるとき、メガネってカッコイイと思わせてくれた「DITA」のサングラスのフレームが割れてしまったんです。本体を持って「このサングラスって、直せるもんですか?」と聞くと、当たり前のように「直せるよ」と。ふたつに割れたサングラスが元に戻るなんて、衝撃でしたね。直らないものだと思っていたので。
――実際に、メガネのフレーム作りを学んでいた頃から、家業を継ぐ意思はありましたか?
いな田さん:メガネを売るのではなく、フレームを作ってひとつのブランドを立ち上げたかったので、正直、半々でした。
――では、どうして継ぐことに?
いな田さん:福井県鯖江市は、地方にあります。そんな場所でありながら、いろいろなメガネパーツをいたる所で製造しているんです。例えば、酒屋の奥で蝶番(開閉できるようにとりつける金具)を作っているとか。そんな地方のチカラが集まったモノづくりや発信を目の当たりにしている間に、実家を継いでもいいかなと思いはじめました。老舗である「Optical Inada 稲田眼鏡店」から、何かできるんじゃないかって。
――それで継ぐ決心をされたんですね。
いな田さん:ただ、眼鏡屋になる人たちって、眼鏡学校で検眼や目の仕組みを学んでからのスタートがスタンダードなんですが、継ごうと決めたのは30歳を過ぎてから。しかも、フレーム作りの方向からメガネ業界に入っているもんで、完全に異端児状態で(笑)。バリバリの文系で生きてきたのに、矯正器具としてのメガネの仕組みを学ばなければいけなくて。30歳を過ぎての数学なんて…サイン・コサイン・タンジェントが外国語にしか聞こえませんでした(笑)
――それではお店について教えてください。「Optical Inada 稲田眼鏡店」とは、どんな眼鏡屋ですか?
いな田さん:それこそ、アパレルショップで働いていた時の店長に言われた「目利きになれば?」のヒトコトが原点になっていて。おしゃれなメガネ、かけて素敵になれるメガネ、つまりはファッションアイテムとしてのメガネを提案する眼鏡屋です。なので、あまり眼鏡屋とは思われたくないですね(笑)。自分でセレクトしたドメスティックブランドのメガネを取り扱って、余白を残してセレクトのお手伝いをしています。
――余白というのは?
いな田さん:例えば「丸顔の人には、このタイプのメガネ」といったセオリーは、いくらでもあります。でも、それだけじゃないし、それなら「Optical Inada 稲田眼鏡店」で選ばなくてもいいんです。メガネって、ライフスタイルによっても、全身のトータルコーディネートとしても、さまざまな面で変わってきます。だから選択肢の余白を残して、「これはどうですか?」と次々に迷わせながらも、選択肢を委ねる接客をしています。
――確かにライフスタイルや人間性、ファッションスタイルなど、いろいろな要素が絡んできますね。ちなみに、オリジナルフレームもお願いできるんですよね?
いな田さん:実は、店を継ぐにあたって本来の矯正器具としてのメガネ作りを主体にしたので、オーダーは受けていないんです。どうしても途中参加みたいなカタチでメガネ業界に入ったので、舐められないようにしっかりと眼鏡屋本来の姿も確立しよう思い、一旦、フレーム作りは休憩しています。異端児が由縁の休憩ってことですね(笑)
――そうなんですね。せっかくフレーム作りを学んだのに、もったいない気もしますね。
いな田さん:そう、もったいないですよね。だから、ハンドメイドのワークショップとして残しました。ベースとなる素材を選んで、フレームの下絵を元に切り出し、削りながら仕上げていきます。そして出来上がったフレームの最終仕上げと組み立てを、お世話になった職人さんに依頼したら完成です。
――よかった、体験できるんですね。最後に、いな田さんにとってメガネとは?
いな田さん:見えないものを見せてくれる矯正器具としてのメガネ、自分らしさやライフスタイルを映し出すファッションアイテムとしてのメガネ。メガネにはふたつの要素があると思っています。もちろん、視力に合わせて度数の調整を行いますが、「Optical Inada 稲田眼鏡店」はアイウェアとしてのメガネを提供していきたいと思っています。だからメガネは、ファッションアイテムですね。そして、奥が深く底が見えない存在です。
ひとつのメガネを作るのに、どのくらいの時間を有するのかうかがうと「長いと、一日ではフレームすら決められないね。うちは、ひとつのメガネを作るのに結構な時間がかかる」といな田さん。その理由は、たくさんの選択肢を委ねられるから。フレーム選びで決まらないと、「ではまた明日」なんてこともしばしば。押し売りはしないで、セオリーにも沿わず、それでありながらもお客さんに寄り添ったメガネ作り。それが異端児のスタイルです。
Optical Inada 稲田眼鏡店
新潟県見附市新町1-10-15
0258-62-0044