昨年から続くコロナ禍や今般の大雪など、何かと非常事態に見舞われることの多い昨今、平時から私たちの日常生活を支える「エッセンシャルワーク」のありがたみを改めて実感している方も多いのではないでしょうか。日々の食卓に欠かせない食材や惣菜を提供する食品店・スーパーもそのひとつ。県北・村上市の荒川地区で長年営業する鮮魚店「かねま鮮魚」さんは、かつては行商の拠点や割烹として、現在は鮮魚のお刺身やお惣菜を豊富に取り扱うスーパーとして、地域の「食」を支え続けています。大手スーパーやコンビニなどに押され、今やすっかり珍しくなってしまった「魚屋さん」ですが、地域に欠かせないお店のひとつとして愛され続けている所以はどこにあるのでしょう。3代目の現社長・渡辺豊栄さんに、地域やお店の変遷も含め話を伺ってきました。
かねま鮮魚
渡辺 豊栄 Toyoei Watanabe
1954年生まれ。有限会社かねま鮮魚代表取締役社長。祖父が大正期に鮮魚店・割烹として創業し、父が鮮魚問屋・仕出し店などを営んできた同店の3代目。商業高校を卒業後、新潟市の仕出し店で5年間修業し、家業に入った。現在は鮮魚、総菜、日用品などを取り扱う「スーパーかねま」の営業をメインに、地域の食卓を支える。
――お刺身から揚げ物、煮物まで、大手スーパー顔負けの品揃えですね。
渡辺さん:いやいや、そんな。小さいお店だけど、ここ最近のような大雪の日でも足を運んでくれる方はいますから。せっかく来たのに品揃えが悪いと、がっかりさせちゃうし。最近はうちの若い世代が、LINEでその日の品揃えやおススメ品の情報を発信してくれてますよ。
――心強いですね。ちなみに、ここ最近のおススメは?
渡辺さん:毎年秋冬、10月から3月まで期間限定の当店名物「鯉の甘煮」だね。うちの先代、私の親父が鯉の本場・山形県の宮内まで通い詰めて身に着けた秘伝のレシピを、私も受け継いでます。鯉っていうと泥臭いイメージがあるけど、うちのは泥臭さが一切なく、小さな子どもでも美味しく食べてもらえるのが特徴かな。むしろ鯉に苦手意識を持っている方にこそ食べてほしいね。
――私もどちらかというと苦手、というかあまり馴染みがないのですが、では今日、買って帰って試してみます!
渡辺さん:それはありがとう。鯉料理は山形では冠婚葬祭のお膳に欠かせないもので、以前うちも割烹や仕出しをやっていたときは季節になると必ず出していたんだけどね。今でもお客さんの中には、年末年始の食卓に必ず揃えて「これを食べないと年を越せない」と言ってくれる方もいて、ありがたい限りです。
――お店の歴史を改めて教えてください。社長で何代目なんですか?
渡辺さん:「かねま」という名前で商売し始めてからは私で3代目だね。今は村上市になっている旧荒川町は、私の生まれた昭和29(1954)年に海側の金屋村と陸側の保内村という2村が合併してできたんだけど、祖父が大正12年ころ、今お店がある場所とは違う金屋村のメインストリートに魚屋兼割烹を開業したのが「かねま」の始まり。父もそのまま店を継ぐつもりだったみたいなんだけど、戦争末期に兵隊で召集されちゃって。終戦後、フィリピンから命からがら帰還して、いざ店を継ごうと思ったら、どうやら駅周辺の方が発展しそうだぞ、と考えたみたいで、それで昭和21年、父は祖父から暖簾分け・独立する形で坂町駅前に鮮魚問屋を開いたんさ。これが戦後復興の波に乗って大当たりで。……「行商」って知ってる?
――えーと、なんか魚を桶で担いで売り歩くイメージですけど。
渡辺さん:そうだよね、若い人にとってはもう歴史上の存在だよね(苦笑)。うちの店はその行商の拠点だったんです。海沿いの地域のお母さん方が、うちで魚を仕入れて内陸の様々な地域へ自転車や汽車に乗って売りに行くっていうね。当時は今ほど交通網や保存技術が発達していないから、山間地域に貴重な鮮魚を売りに来る行商は重要な役割を担っていたんさ。全盛期は100人以上の女性がうちで魚を仕入れてたって。私が子どもの頃も、まだ夜も明けないうちに大勢のお母さん方がうちに来てさ。どんどん魚を積んで、方々に散っていく光景を今でも憶えているよ。
――すごいですね。毎日ですか?
渡辺さん:そうだね。うちは子どもの頃から毎日午前2~3時起き(笑)。私たち家族も住み込みで働く人たちといっしょに総勢20人くらいで同じ食卓を囲んで、丸一日の休みといえば元日ぐらい、今のブラック企業も真っ青かもね(苦笑)。ただ、当時はどんどん豊かになっていく時代だったし、近所の商売やっている家は、どこも似たようなものだったよ。親は運動会にも学芸会にも来てくれない、家族旅行なんてものとも無縁。今では信じられないかもしれないけど、坂町は鉄道機関区もあって交通の要所だったから、当時はこのへんも渋谷のスクランブル交差点ばりに人でごった返していたんだよ(笑)。藤町商店街といってね、映画館もパチンコも2軒ずつあったね。
――へぇー。古き良き高度経済成長期ですか。
渡辺さん:うちもこの地域では初めて冷凍での卸を始めたり、婚礼や建前(棟上げ)の増加を受けて板前さんを雇って仕出しや割烹にも乗り出したり、その後も拡大の一途で、昭和38(1963)年には法人化するまでになったのね。その後、昭和42(1967)年にこの荒川流域は羽越水害に遭ったんだけど、これがまた、災害特需っていうと申し訳ないけど、みんな家を建て替えるから建前の料理の注文がひっきりなしで。とにかく景気が良くて、収入はどんどん増えていくから、みんな競うようにお金を使っていたような感じ。私もその昭和40年代後半、高校を出て新潟市の仕出し店に住み込みで修業へ行ったんだけど、当時はちょうど団塊の世代の結婚ラッシュで、本当に目の回る忙しさでさ。当時の結婚式は、今みたいに式場やホテルでやるものではなく、仕出しで料理を用意して自宅でやるか、あるいはお座敷がある地元の割烹でやるものだったから。修業を終えて帰ってきてからも、こっちのお店も土日は全て予約で埋まっていて、フル回転だったな。
――それが落ち着いてきたのはいつ頃でしょう?
渡辺さん:はっきりとは憶えていないけど、やっぱりバブルが弾けたあたりかな。あれだけ入っていた婚礼や建前の予約・注文が次第に減っていき、ついには殆どなくなっちゃった。さっきの行商もそうだけど、「仕出し」という言葉も残念ながら今では死語に近いものね。とにかくバブルが弾けて以降は、以前の競うように贅沢する雰囲気は完全になくなったね。
――そうですか。スーパーはそのころ始めたんですか?
渡辺さん:いや、父の代、それこそ多角経営をしていた昭和40年代からやっていたよ。地元ではエノモトさん、ハセガワさんに続いて3番目のスーパーだったね。まだ大手スーパーやコンビニがなかったころの話だけどね。地元では当時から通ってくれていた方が今も来てくれていたり、家族で世代を跨いで利用してくれていたり。うちはそういった方々に支えられています。
――そうなんですね。地元で「かねまの味」が定着しているんですね。
渡辺さん:ただやっぱりね、うちの味に長年親しんでくれてきた方がだんだん減ってきている、という危機感はありますよ。このへんも人口減で、お客さんの絶対数自体が減っているのもあるしね。うちも正直、なんとか持ちこたえているような状態だよ。今後は、いかに若い世代にうちの味を知ってもらうかがカギです。娘や、一昨年に首都圏から帰ってきた息子も、一生懸命そのことを考えてくれています。
――次世代の方も活躍されているんですね。
渡辺さん:娘は嫁ぎ、息子も本業は財務管理関係で普段は別の会社勤めをしているけど、ともに家業へも参画してもらっています。自分も「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という心境で、安心して引退できればいいんだけど(苦笑)。今後は、うちにしかできないことにさらに集中していくことになるだろうね。日本中の商店主が考えていることだろうけど、大手に対抗するには、なんとかハッピーエンドを迎えられるよう、今後も頭をひねっていこうと思っています。
――なるほど。本日はありがとうございました。
取材の日はあいにく大荒れの天候でしたが、それでも店舗には常連さんと思われる買い物客の方が途切れることなく出入りし、顔見知りの従業員の方と四方山話に花を咲かせていました。地域の方にとって、いつ来ても「あの味」が買え、「あの顔」に会える安心感は、何物にも代え難いことでしょう。そんな「地域の台所」として、今後も末永く営業を続けていってほしいと思います。