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今や全国区のアイドルグループ「Negicco」を支えて続けてきた熊倉維仁。

熊さんに聞く、Negiccoのこと。

新潟の顔といっても過言ではないアイドル「Negicco」。結成から16年も活動を続けている息の長いグループです。今や全国的な認知度を誇る彼女たちですが、これまでの道のりには様々な苦労や危機がありました。その間、メンバーをずっと見守り、支えてきたのが、「熊さん」こと熊倉維仁さん。今回は熊さんにNegiccoにまつわるエピソードをいろいろと聞いてきました。

 

株式会社EHクリエイターズ

熊倉 維仁 Yoshihito Kumakura

1952年広島県広島市生まれ。株式会社EHクリエイターズ代表。27歳で新潟市でフリーランスのデザイン事務所を立ち上げる。その後、広告代理店、制作プロダクションを経てライブハウスの運営に関わる。2004年、越後屋本舗クリエーターズを立ち上げ、2011年には株式会社EHクリエイターズとして法人化。音楽が好きで、仲間たちと「アルツハイマーブルーズバンド」を結成し、ライブなどで演奏している。

 

Negiccoの危機は、メンバー脱退や大学進学。

——今日はよろしくお願いします。Negiccoが大活躍してますね。熊さんはどんないきさつでNegiccoと関わることになったんですか?

熊倉さん:2003年に発表した「ニコニコ食育音頭」が一緒にやった最初の仕事です。「スローフード金沢」という団体からオファーが来て、CDを15,000枚作ったんですよ。幼稚園や保育園に配って食育の啓蒙活動をするための曲でした。次の年に、Negiccoが所属していた「SHOW!パフォーミングスクール」が閉校して「 ICOプロモーション」というところで活動することになったんです。そのときに僕も嘱託社員としてその会社に入って、彼女たちのマネジメントをすることになったんですよ。

 

——最初から「越後屋本舗クリエーターズ」ではなかったんですね?

熊倉さん:ええ。その後、Negiccoが「ICOプロモーション」から出ることになったので、2007年にNegiccoのが「越後屋本舗クリエイターズ」に所属することになりました。すでにNegiccoの知名度はあったので、やっていける自信はありました。

 

——危機みたいなものは何度かあったんでしょうか?

熊倉さん:最初はMikuというメンバーが脱退したときかな。4人でやっていたグループが3人になるっていうことがね。でもその後、Nao☆がリーダーとしてどんどん成長してきたんです。そのあと、Kaedeが進学するときもピンチでしたね。彼女は最初、東京か富山の薬学系の大学に行きたいと思ってました。でも、新潟の大学に決めてくれたことで続けることができたんです。Kaedeが学校に行ってる平日はNao☆とMeguのふたりで活動してました。でも土日は時間を作ってKaedeが参加してくれたので、ありがたかったですね。教科書やパソコンが入ってたんだろうと思うんだけど、当時の彼女のカバンは重くってねぇ…。日曜に都内でライブがあったりすると帰ってくるのは夜中でしょう?次の日はふつうに講義に出たりして大変だったと思うけど、よく頑張ってくれたよね。

 

大会優勝に導いた、熊さんのひとこと。

——そんな苦労の中、ブレイクしたのは何かきっかけがあったんでしょうか?

熊倉さん:2009年にインターネットTVの「GyaO(ギャオ)」でやった「勝ち抜き!アイドル天国!!ヌキ天」。そこで6週勝ち抜きしてグランプリをいただいて、その翌年は「U.M.U AWARD 2010」というご当地アイドル日本一を決める大会で初代チャンピオンに選ばれたんです。「U.M.U AWARD 2010」のときは、Negiccoのメンバーがリハーサルからガチガチに緊張してました。だからひとこと言ったんです。「別に優勝しなくてもいい。この大会のステージでパフォーマンスするだけでも、充分PRになるんだから。」そしたら肩の力が抜けたのか、本番ではリハーサルと違ってのびのびしたパフォーマンスを見せてくれて、優勝しちゃったんですよね。

 

——立て続けのグランプリやチャンピオンってすごいですね。実力を証明できたってことなんでしょうか。

熊倉さん:そうかもしれないですね。あとはタワーレコードさんが立ち上げたアイドル専門レーベル「T-Pallette Records(ティーパレットレコーズ)」の立ち上げに参加できたのも大きかったです。

 

——「T-Pallette Records」に参加して、大きなメリットはありましたか?

熊倉さん:もちろんありました。全国のCDストアにNegiccoのCDが置かれるようになったわけですから。そのメリットは大きいですよ。それまでオリコンなんて意識したことなかったのに、意識するようになりました。あと、タワーレコードさんはじめ、いろいろなところとお付き合いするようになったので、「株式会社EHクリエイターズ」として法人化したんですよ。タワーレコードの担当者はNegiccoを初めて見たとき困ったらしいけどね。「とんでもない田舎娘が来た。どう磨いたらいいんだろう」って(笑)

 

デザイン業界から音楽業界への転身?

——熊さんは最初から音楽関係の仕事をしていたんですか?

熊倉さん:いや。最初はグラフィックデザインをやってました。27歳の時にフリーランスのデザイン事務所を立ち上げて7〜8年くらいやったかな。そのあと、新潟市内の広告代理店でデザイン制作の仕事をやっていたんだけど、クライアントと直接関わることのできる営業をやりたいと思うようになったんです。そのことを会社に伝えたらイベント制作部を作ってくれたんです。そのときにライブハウスの「JUNK BOX(ジャンクボックス)」へ営業のあいさつに行ったのがきっかけで、関わるようになりました。

 

——それから「JUNK BOX」の運営に関わるようになるんですね。

熊倉さん:「JUNK BOX」は全国にライブハウスを作ろうという、壮大な計画を持っていたんです。実際、仙台や長野にはライブハウスを作っていたんですよ。アメリカンドリームのような大きな夢を感じて僕も参加したんです。でも、私が入って2年後には倒産してしまったんですけどね。

 

——それにしても、デザイン業界から音楽業界への転身って戸惑いはないものですか。

熊倉さん:どちらもクリエイティブなものという部分では共通してますので、まったく違和感は感じなかったです。

 

古町は自分にとってもNegiccoにとってもふるさと。

——熊さんは古町に対して特別な気持ちってありますか?

熊倉さん:「JUNK BOX」社長の話に共感したところは大きいですね。新潟市は北前船の港があって、古町には全国でも3本の指に入る芸妓文化があったわけです。だから、新潟の芸能文化っていうのは、古町から発信していきたいっていうこと。僕もその意志を受け継いでいきたいと思っています。あと、僕にとってもNegiccoにとっても故郷のような場所だよね。恩義も感じてるし、もっと盛り上げていきたいですね。

 

——では、熊さんが今後やってみたいことってなんでしょう?

熊倉さん:僕は今までずっと裏方をやってきたんです。以前にも「JUNK BOX」で音楽をやってたことがあるんですけど、自分の下手さ加減に音楽を封印してたんです(笑)。でも2〜3年前に「アルツハイマーブルースバンド」というバンドを組んで演奏してみたら、音楽の面白さを再発見できたんですよね。それと同時に、自分でやってみたことでNegiccoのすごさにも気づきました(笑)。無理のない範囲でバンドを続けていきたいと思ってます。

 

 

デザイン業界から音楽業界へ転身し、Negiccoを見出して15年も見守り続けてきた熊さん。その苦労が実を結んで、今のNegiccoの活躍があります。今後は裏方だけではなく、ご自身の音楽活動も楽しんでいっていただきたいと思います。

 

 

株式会社EHクリエイターズ

〒951-8065 新潟県新潟市中央区東堀通6番町1051-1

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