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楽しめるプロレスを目指す、田上町出身のプロレスラー「松山勘十郎」。

白面に隈取をした歌舞伎役者のような「松山勘十郎」というプロレスラーをご存知でしょうか? 大阪を拠点に興行をおこなう「大衆プロレス 松山座」というプロレス団体で座長を務めていますが、実は新潟の田上町出身のプロレスラーなんです。6月15日に開催された「新潟プロレス 三条厚生福祉会館大会」のために来県した松山選手を直撃し、いろいろとお話を聞いてきました。

 

 

大衆プロレス松山座

松山 勘十郎 Kanjuro Matsuyama

1984年南蒲原郡田上町生まれ。高校卒業と共にプロレスラー養成学校「闘龍門」に入門し、2004年のデビュー戦を勝利で飾ったのをはじめ、神戸やメキシコで試合を重ねる。2006年に日本へ凱旋し2008年より「大阪プロレス」に所属。10周年を迎えた2014年に独立して「大衆プロレス 松山座」を旗揚げする。特撮ヒーローや「陰陽座」が好きだが、それ以上にプロレスを愛している。

オタク少年がプロレスラーになるまでの道のり。

——大阪から遠いところお疲れさまでした。今日はよろしくお願いします。早速ですけど、松山さんはいつからプロレスに興味を持つようになったんですか?

松山さん:中学1年生のときです。同級生に大のプロレス好きがいて、毎日のようにプロレスの話を聞かされていたんですよ。興味のなかった拙者からしてみればいい迷惑だったので、否定するネタを探すためにテレビでプロレス中継を見てみたんです。全日本プロレスの「’97サマーアクションシリーズ 日本武道館大会」三冠ヘビー級選手試合でした。

 

——あ、もしかして、その試合を見てプロレスにハマってしまったんでしょうか?

松山さん:はい。テクニックを駆使した華麗な試合を観て、それまでプロレスに対して抱いていたイメージがひっくり返ってしまったんです。それからはプロレス雑誌を読みふけるオタクと化して、中学2年生の頃にはプロレスラーになろうと決心して、レスリング部のある高校を受験しました。

 

 

——すごい情熱ですね。レスリング部に入ってみてどうでした?

松山さん:運動が苦手で中学時代はコンピュータ部に入っていた典型的なオタクだったので、レスリング部で過ごした高校時代は辛かったですね。お菓子やジュースは口にしないようにしてハードな練習と向き合っていたので、人生のなかで最もアスリートしていた3年間だったと思います。そのおかげで肉体以上に精神面が鍛えられ、プロレス団体に入ってからの厳しい修業にもついていくことができたんです。

 

——高校を卒業してすぐに、プロレス団体へ入ったんですか?

松山さん:ウルティモ・ドラゴン選手が設立した「闘龍門(とうりゅうもん)」というプロレスラー養成学校に入門しました。書類審査に合格したときは不安な気持ちもあったんですけど、プロレスラーとしてスタートラインに立てた喜びの方が大きかったです。

 

——プロレスラーとしての修業は、かなりキツかったんじゃないですか?

松山さん:それはもう……。でもプロレスラーとして生き残ることしか考えていなかったので、キツいとか辛いとか考えている暇もなかったですね。後になってみると、辛かったことほど役に立っているように思います。

 

 

——深い言葉ですね。修業はどのくらいの期間だったんでしょうか?

松山さん:神戸で半年、メキシコに渡って3年間修業しました。

 

——メキシコは日本のプロレスとは違うんですか?

松山さん:メキシコのプロレスは、日本と動きが全然違いましたね。日本ではひとつずつやる複数の動きを、まとめて一度にやっちゃうんです。

 

——それはすごい。印象に残っているメキシコでの思い出はありますか?

松山さん:ピストル強盗にあって持ち金を巻き上げられたことかな。メキシコでの生活は大変な目にもあいましたけど、刺激的な毎日を送ることができましたね。

 

誰もが楽しめるプロレスを続けていきたい。

——プロレスにお笑い要素を取り入れるようになったのは、いつ頃からなんでしょうか?

松山さん:日本で初めてやった試合中に、ボソッと漏らしたひと言がお客様に受けたんですよ。そのときの経験から、拙者がお笑いの部分を担おうと思うようになりました。メキシコ時代の試合を見ると、とても同じ選手とは思えないんじゃないでしょうか。

 

——そんなに変わったんですね。「大衆プロレス 松山座」を立ち上げたのはどうしてなんですか?

松山さん:以前から自主興行をやってみたいという気持ちを漠然と抱えていたので、まだ「大阪プロレス」に所属している頃に自主興行をやってみたんです。何から何までひとりでやるのは大変だったけど、それ以上にとても楽しかったので、年に一度は興行を開くようになりました。そしてプロレスラーとして10周年を迎えたのを機に、独立して「大衆プロレス 松山座」を旗揚げしたんです。

 

 

——独立にあたって不安はありませんでした?

松山さん:それまでの経験が自信になって背中を押していたので、はじめる前は勢いの方が強かったですね。でも、はじめてみたら世の中の厳しさを感じることになりました。

 

——旗揚げしてからいちばん大変だったのは、どんなときですか?

松山さん:やっぱりコロナ禍ですね。興行が一切できなくなってしまいましたから……。ただ悪いことばかりではなかったと思っているんです。それまではずっと走り続けてきたんですけど、立ち止まって考えることができる時間ができたことで、なかなか手をつけられなかったことや、新しいことをはじめる機会になりました。

 

 

——例えばどんなことを?

松山さん:興行がなくてグッズの会場販売をできなかったので、通販サイトを整備しました。あとSNSでファンの皆様とコミュニケーションを保ち続けたことが安心感につながりました。コロナ禍を乗り切ることができたことで、自信を持つことができましたね。

 

——コロナ禍も落ち着いて、興行が再開できるようになってよかったですね。

松山さん:拙者が神と崇めるザ・ドリフターズのように、老若男女どなたにも楽しんでいただけるようなプロレスを続けていきたいと思っています。そして、いつかは「松山座」の道場や自前のリングを手に入れて、新しい選手をどんどん育てていきたいですね。

 

 

 

松山勘十郎

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