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いつもの食卓で使える器に「美」を宿す、陶芸作家「陶 岡﨑」。

  • ものづくり | 2022.12.23

長岡市の川崎インターチェンジを降りて、中心街とは逆方面に10分ほど車を走らせたところに「陶 岡﨑」さんの工房があります。木々に囲まれた自然豊かなその場所で陶芸作家の岡崎さんが作っているのは、「日々の食卓で使える器」です。作品に込めている思いや独立してからのことなど、いろいろとお話を聞いてきました。

 

岡﨑 宗男 Takao Okazaki

1966年魚沼市生まれ。幼少の頃、家族で長岡市に転居。東京の「日本デザイナー学院」を卒業後、益子焼最大の窯元「つかもと」へ入社。2002年に退社し、「ゆみ陶」「和田窯」で修業。2007年に長岡市に戻り、2008年から「陶 岡﨑」としての活動をはじめる。料理が趣味で、唐揚げが得意。

 

建築士を目指していた学生時代。在学中に知った益子焼に興味を持つ。

——まずは岡﨑さんが陶芸の道に進むまでのことを教えてください。

岡﨑さん:僕は勉強が嫌いでね。中学を卒業したら和食料理屋さんに奉公に出ようと思っていたんです。でも両親に猛反対されて、仕方がないから地元の高校に進みました。それからまた進路をどうするかと迷うわけですけど、料理人がダメなら得意な図工を生かした仕事に就こうと思ったんですよ。絵描きではご飯が食べられないかもしれないから、「建築士になって家を作ろう」と思いました。それで渋谷の専門学校へ進学して、インテリアデザインを学ぶことにしたんです。

 

——最初は建築士志望だったわけですね。

岡﨑さん:当時、渋谷のPARCOに「つかもと」という、益子焼の窯元で製造と販売もしている大きな会社の直営店があって。そこで益子焼に出会って「面白そうだな」と思ったんです。在学中から「つかもと」でアルバイトをはじめて、そのまま社員になりました。

 

 

——「つかもと」さんにいらしたときは、どんなお仕事をされていたんですか?

岡﨑さん:東京の事務所で何年か営業の仕事をしましたね。でもいつかは地元に帰らないといけなかったから、どうしたもんかと迷っていたんです。「つかもと」が長岡にあるわけじゃないし、「会社を辞めたとして転職できるんだろうか」と悩みまして。それで「焼き物を覚えて手に職をつけよう」と考えたんです。会社に頼み込んで20代半ばで益子町に異動して、数年営業をしてから製造部門で10年弱働きました。そこで焼き物づくりを覚えました。

 

——「地元に戻る」という目標が陶芸をはじめるきっかけだったわけですね。

岡﨑さん:「長岡に帰らなくちゃいけない」というのもありましたけど、焼き物に興味を持ったから勉強したくなったんですね。昔は「つかもと」に陶芸家を育てる部署みたいなものがあったんですよ。「研修生制度」といって、社員とは別に作家志望の人材を募集していたんです。その人たちは昼間社員と一緒に仕事をして、17時から21時まで「つかもと」の作業場を使っていい、という環境でした。僕は社員だったんだけど、研修生と同じように仕事が終わってから焼き物の勉強をさせてもらっていたんです。そこで勉強してから独立した人が大勢いたんですよ。当時は「つかもと大学」なんて呼ばれていましたから。

 

——じゃあ、その頃の経験が岡﨑さんのベースになっているんですね。

岡﨑さん:でもやっぱり「会社は会社」ですから、肝になったのはその後ですね。「つかもと」で学んだので、焼き物づくりの工程はすべて理解していました。そこに実技を伴わせようと「ゆみ陶」「和田窯」という個人作家に師事したんです。陶芸家の下で「どうやって工房を営むか」「どこへ作品を卸すのか」「どう仕事を分担するか」、作家としての仕事を直に学ぶことができました。やっていることは「つかもと」で学んだ基本となんら変わらないんですけど、親方たちは作品により思いを込めている感じがしましたね。「この人はこれを大切にしているんだ」っていうものがそれぞれにありました。

 

日用品の中に「用の美」がある。「民芸品」の考えに基づいた、使いやすくて美しい器。

——益子焼についても詳しく教えてください。

岡﨑さん:益子焼は江戸時代の終わり頃からはじまって、170年ほどの歴史があります。陶器の産地はどこもそうですが、物流が整っていない時代に「地域で採れる材料が焼き物に向いている」という理由ではじまったものです。いわゆる地場産業ですね。益子焼、伊万里焼、有田焼って地域の名前がついているのには、そういう理由があります。それぞれの焼き物には「地域で採れる材料を使う」という定義があるんですが、今はどこからでも原料調達ができますからね。実態は定義通りではないところもあるんですけど、僕は益子から原料を調達しています。

 

——なるほど。益子の素材で作られることが大前提なんですね。

岡﨑さん:益子焼が栄えた背景には、関東大震災が起きたことも関わっています。東京にモノがなくなって、土瓶やすり鉢だとかの生活用品が必要となったんですね。そういった「生活雑器」と呼ばれるものが益子で作られていたので、益子焼の需要が高まり、産業として大きくなっていったんです。

 

——つまり、益子焼は「生活に必要な器」として栄えてきたということですか?

岡﨑さん:茶器や祭器は「上手物」、それに対して「生活雑器」を「下手物」なんて言ったりします。そう表現されるくらいだから、益子の「生活雑器」は特別なものではなく「庶民が毎日使う器」なんです。

 

 

——だから岡﨑さんのInstagramには、「使いやすい器・シンプルな器・毎日の器」という言葉が並んでいるんですね。

岡﨑さん:そうなんです。毎日食卓に登場する器であって欲しいから、使いやすさをいちばんに考えています。加えて「シンプルに」とも。使いやすいってことは「美しい」ということなんですよ。

 

——使いやすいは、美しい?

岡﨑さん:「暮らしの中で使われる日用品の中に用の美がある」という「民芸品」の考え方があるんです。その特性には、実用性、複数性、廉価性など9つの要素がありまして、つまり実用的で、ある程度の数が揃っていて、安価である、ということです。作家さんの一点物と呼ばれる作品とは真逆ですが、益子焼はまさしく「民芸品」といわれるものなので、僕は日常で使いやすくて美しい器を作りたいと思っているんです。

 

大好きな料理が、器を作る原動力。

——ところで、おひとりで作品づくりをされていると「集中できない」なんてことはありませんか?

岡﨑さん:そりゃありますよ。そんなときは山に入って、山菜とかきのことか採りに行きます(笑)。独立して3年目くらいの頃だったかな。「何を作ったらいいんだろう」と苦しんだ時期もありましたね。簡単に言うと、作品が売れなかったんです。「工房も建てたんだし」と、必死に、がむしゃらに焼き物を作るんだけど、「ところでこれ、どこに卸すんだ」って。あの頃はまったく仕事が面白くなかったな。

 

——そのスランプをどう克服されたんでしょう?

岡﨑さん:「今のスタイルでやっていてはダメだ」「自分が変わらないといけない」と思って、「手法を変えるのか」「材料を変えるのか」「自分の考えを変えるのか」と、もがきましたね。それで修業時代にお世話になった窯元独自のポイントというか、「調味料みたいなもの」は何だったかなと思い返して、原料と手法を少しだけ変えました。そんなことをやっていて、独立して5年目くらいのときに人との出会いに恵まれたんです。「adlibcrafts skylab 73」という屋号でリメイクなどの活動している池田さんと「vickey’72」の中嶋さんに出会って、「Stockyard Birds」というユニットで活動をはじめました。それから長岡の「S.H.S」で展示会をさせてもらったり、活動の幅がどんどん広がって、「陶 岡﨑」をだんだんと覚えてもらっていったんですね。

 

 

——人との出会いってパワーを生むものですね。

岡﨑さん:あの巡り合いは、本当にラッキーでしたね。誰かを羨ましく思う性分ではなかったんですけど、「注文がいっぱいで忙しい」という人が羨ましくて、羨ましくて。まさか自分が展示会や注文で「忙しい」と思える日が来るなんて、当時はまったく想像もしませんでした。

 

——作品のアイディアはどこからくるんですか?

岡﨑さん:器を作る原動力は料理からきています。僕は料理人になりたかったくらいだから、家では三食を作る「給食当番」です。料理から「こういう器があるといいなぁ」と閃くことが多いですね。「副菜を盛るのにちょうどいい小鉢」とか、スーパーのお惣菜をお皿に移すだけで素敵な感じになる「盛り映えする器」とかね。便利であり、「盛り映え」して、値段も高くない。そしてちょっとおしゃれな食卓になる。そんな器が僕の作品です。

 

 

 

陶 岡﨑

長岡市乙吉町972-354

TEL 0258-37-5212

E-mail:takao69@sky.plala.or.jp

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