五泉市南本町にある「塚野刺繍」は、高い刺繍技術とこだわりを持った独自のアイデア商品が特徴の刺繍屋さんです。今回は工場にお邪魔して、成り立ちや刺繍に対する考え方などいろいろとお話を聞いてきました。
塚野刺繍
塚野 毅之 Takeyuki Tsukano
1960年生まれ。高校卒業後、全国的に展開するミシン屋に勤務し、その後2代目として塚野刺繍を継ぐ。
――塚野刺繍さんの創業はいつ頃だったのでしょうか。
塚野さん:今、創業60年目です。昭和30年代の、ニット産業が伸びてるときに創業したっていう。うちの父親はもともとミシンを修理する仕事をしていて、ニットが伸びたときにそういうのがいんじゃないかってことで始めました。今は五泉市ですけど、もともとは村松町に工場があって、ここには2年ほど前に移転してきました。
――スタートするタイミングとしては良い時代だったんですね。
塚野さん:ちょうど僕が生まれた年に会社を創業したんです。僕、今年60歳なので。歴代の社員さんの中には、僕が生まれた頃から知っているという人もいましたね。会社は、起業した最初の3年くらいで一気に大きくなって、社員も50人くらいに増えたんです。当時、ミシンはありましたけど、機械化されていたわけではないので、やっぱり手の部分が多かった。そうすると生産が増えてくると人をいれなきゃいけなかったんです。ネーム入れとか手作業で行うようなところに人がたくさん必要だったんです。
――塚野さんは小さい頃から会社を継ぐように言われてたんですか?
塚野さん:よくは考えてませんでしたけど、いずれそうなるんだろうなと漠然と思っていました。でも僕が20歳のときにうちの父親が病気になってしまったんです。僕はそのとき、よそのミシン会社に努めてたんですけど、帰ってこいと言われて。そのミシン屋には、父親から行けと言われて行っていたんです。
――よそのミシン屋さんで働いていたのは、やっぱりミシンの知識が大切だったからですか?
塚野さん:ミシンの知識がなくてもやってる人はいっぱいいると思うんですけど、父親としては「機械が分からないとできないから」っていうことだと。プログラム組んで機械が動くんですけど、実際に機械が動くときに、どうやったら動きやすいかとか、エラーがでるかとか。そういうことは機械を知っていないと設計できないんですね。設計だけできても、動かしたらエラーがでることもあったり、無駄に動かしてることもあったりとか。機械を知っていればそれを減らすこともできるし。仕組みが見えると設計から変わってくる。そうすると、いろんなことができるようになるんです。
――ミシン屋さんではどのくらい働いたんですか?
塚野さん:2年ちょっとですね。名古屋が本社で、東京、大阪、福山に支店があって全部行かされました。名古屋本社のときは北陸まわりだったり、大阪行くと奈良・和歌山まわり、福山のときは四国・九州。国内行ったことないのは沖縄ぐらいかな。1日移動してお客さんのところ1~2軒しか行けないみたいな。
――すごい移動が多くて大変ですね。
塚野さん:逆に言ったらめっちゃ楽しいですけど(笑)
――確かに旅行みたい(笑)。
――そのミシン屋さんでは具体的にはどんな仕事をされてたんですか?
塚野さん:会社は海外のミシンを輸入してるような代理店でした。うちが輸入元だから、お客さんはミシン屋さんになるわけです。でも当時は機械の専門的な知識をすべて会社が教えてくれるような制度がなくて。とにかく呼ばれたら行ってその場で機械を見てどこが悪いのか自分で見つけなければいけないんです。ものすごいプレッシャーでしたね。当時携帯電話なんてないので、固定電話借りて会社に電話して聞きながら直してました。今みたいに画像をすぐ送れるような時代ではないので、頭の中で今見た機械の構造を思い浮かべながら話して、それを思い出しながらまた機械をいじってみたいなことをしてました。応用力はかなり鍛えられましたね。
――そういった経験を経て、いよいよ家業を継ぐことになるわけですね。
塚野さん:ミシン屋で働いていたので、刺繍屋は少しは見たりしてましたけど、内容とか経営とかまったく分からなくて。配達でお客さんのところ行ってお茶飲んで帰ってくるみたいな。それでも半年くらいはすごく儲かって、めっちゃいいなと思って(笑)。当時の同級生と給料比べてもすごく良かったし。それが翌年の春になったら突然仕事がなくなって。仕事はないのに社員の給料は払わないといけないのでお金はどんどんなくなる一方でしたね。半年間すごい天国見て、そのあと3年くらい地獄を見ました。
――それは何か理由があっての不振だったんですか?
塚野さん:そのくらい波の激しい業種っていうのもありますけど。この業種はお客さんにサンプルを出して、それが本格的に仕事になるのは半年後だったりするんです。うちの父親が入院したのが8月くらいで、ちょうど半年後くらいに仕事がなくなったわけですよ。僕が社長になってからは仕事をこなすだけで、先の仕事をしてなかったわけです。恐ろしい業種だと思った。今はそうでもないですけど、昔は1年で何社も倒産して、また何社も新たしく設立されるような感じでした。儲かるとこは儲かるし、倒れるとこは倒れていく。昭和から平成になるあたりまでですよね。バブル崩壊前の10年くらいはかなり動きが激しかったです。
――バブルの前後というのはやっぱり差が大きいものですか?
塚野さん:バブル崩壊前の2年くらいはグッと伸びて、バブルが弾けてガツンと落ちた。うちは設備投資は多少しましたけど、あまり無理な拡大はしなかったので、バブルが弾けたあともそんなに苦しまなかったです。
――堅実な経営をされてたんですね。
塚野さん:僕が入ったときが一番社員数が多かったんですけど、どんどん機会化されていくようなときで、人手がだんだんいらなくなるような時代だったんですね。社員は当然歳をとっていくし、そうなると新しい機械についていけない人を切っていかなければならなかった。社長になって最初の仕事は社員を半分にすることでした。そういうことがあったから、バブル全盛期のときも直感的に堅実にできたのかもしれないですね。
――手仕事からテクノロジー化への変化の過程では、刺繍の需要はどんな感じだったんですか?
塚野さん:すごいブームは僕も経験したことがないですけど、アーノルド・パーマーっていう傘のマークのブランドが流行ったことがあって。その時代が刺繍屋でいうと一時代。まぁ数年間あったと思うけど。五泉市でセーターを作って、傘のマークを入れて、山のように売れたと。やってることはその当時と一緒ですよ、今も。やっぱり内容は多少変わってますけど、30年くらい根本は変わってないってことですよね。
――その中でどうやって他社と差別化してきたんですか?
塚野さん:桐生とか宇都宮とか大阪とか他県の刺繍の盛んな場所は、うちなんかより規模の違う会社がいっぱいあるんで競争に勝てないんですよ。規模が大きければ、納期が短縮できたり生産量も多くなりますよね。メモリにデータいれて設定すれば基本的には縫えるわけで、規模感では競争にならないから儲からない。だからどこか、突き詰めていかないと仕事がとれないので。ちょっとずつ狭いところを狙いに行くわけですよ。
――狭いところ、というと具体的にどんなところを攻めていったんでしょうか。
塚野さん:刺繍でいうと「ふってる刺繍(本縫い)」「ぼこぼこしてる刺繍(チェーン)」「紐を縫い付けてるような刺繍(紐とめ)」の3種類があって。その当時は紐をとめていくのが一番めんどくさいし、逆にいうと変わったことができた。今はもうやってないんですけど、その当時はそこを突き詰めようと。まず紐を作るところから始めました。
――紐から作ったんですか?
塚野さん:見た目を変えるんだったら紐を変えたほうが早いなと。ただそれをやってもすぐ他に真似されるわけですよ。規模が大きいところは機械を入れて始めるのですぐ追いつかれる。そうするとうちはさらに変な紐を縫えるようにするとか工夫するわけです。機械的にエラーがでることをやってみたりとか。いろんなことが当時の機械はできたので。そうすると今まで真っ直ぐしか縫えなかったのが、なんか立ち上がったような見た目の物ができたりする。
――エラーで差を出す、ミシン屋の経験が活きてくるんですね。
塚野さん:基本的には機械いじりが好きなんで。それでも結局、真似されるんですけどね。商品にして売れば当然他の会社も買えるので。そうするとメーカーとか機械屋さんとかうちに見にくるんです。どうせバレるからこうやってするんだよって教えて(笑)
――いろいろ工夫されてやっていたんですね。
塚野さん:あとはアパレルのデザイナーと仲良くなったりとか、商社のデザイナーみたいな人とか。なので、うちは直で話をもらうことが多かったですね。普通はニット工場の下に刺繍がいるから、刺繍屋に直接、話はこないんですよ。ニット屋さんが付き合いのある刺繍屋さんに仕事を出すってのが一般的だから。変わったモノを作って送ると商品が勝手に営業してくれるんで。「これどこ?」みたいな話になったり。すると徐々に仕事が増える。
――他にはできないことや、変わった商品を常に求めていたんですね。
塚野さん:社員を絞らなければいけないってことは、やる業務も絞らないといけなかったし。面白いことができるってのは分かる。できることは分かってたけど、売れるかは分からない。ハマれば売れるけど、すごいことができても売れなきゃなにもならない。でもそこはまぁまぁ運良く。
――他と違うことをやる上で不安はなかったんですか?
塚野さん:変なめんどくさいものを作ろうとすると、やる時点で採算合わないのはわかるんです。すごい手間をかけて、じゃあいくらで売れるかって考えたら損するのはわかるわけで。でもそういうことをやることによって、機械の動きとプログラムをより理解できたりするわけです。それもひとつの財産なので。普通の刺繍をやっているだけではそういうアイデアはでてこないし、腕も落ちる。でも変なものを作ると腕が上がる。
――社員さんもそういうスピリットを受け継いでるんですね。
塚野さん:社員のスキルを上げなきゃいけないときは、ちょっと好きなことをさせてみる。そうすると不満な部分と満足できる部分がやっぱわかってくる。不満な部分をなくすと技術力が上がる。なんで無駄があるんだろうって考えると、無駄をなくすにはどうしようって考えますよね。社員だって作業工程で一回一回邪魔だなって思ったらそれをなくすように工夫しますよね。それが普通の流れ作業だとそこを考えない。手間を増やすと残業が増える。でも残業したくなければいかに早くするか考えるんで。
――社員さんにとっては成長もできるすごい良い環境ですね。
塚野さん:フランスのポンピドゥー・センターとか品川区にあった原美術館にうちの刺繍が飾られたこともあるんですよ。これ刺繍なんですよ。
――え、この字ですか? あえて刺繍なんですね。
塚野さん:フランスのソフィ・カルさんていうアーティストさんで、写真を撮って文章を添えて展示しているんですね。その文章を刺繍で作りました。ほんとはシルクスクリーンで印刷の予定だったらしいんだけど、「印刷はつまんない」って(笑)。それで布と刺繍がいいって言いだして。
――アーティストですね(笑)
塚野さん:最初の発表が日本だったので、原美術館の学芸員の方とたまたまつながりがあって、うちがやることになったんです。すごい大変な作業なのでほんとは断りたかったんだけど(笑)。全部で40枚。
――今後はどういったことを目指していますか?
塚野さん:当然、競合会社はいっぱいあるので、他に追いつかれないようなことを密かにしていて。刺繍って表と裏があって裏はどうしても汚くなるけどそこをいかになくすかとか。うちがやってるのはどこの刺繍屋にいってもやってるような基本の刺繍なので、そこで差を出そうとすると、そういうことを常に考えていかなければいけないんですよね。
塚野刺繍
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