かつて長岡市にあった洋食店の草分け的な存在「小松パーラー」。そのお店で提供していた「洋風カツ丼」をご存じですか? ライスの上にトンカツが乗り、甘めのソースがかけられた特徴的なカツ丼です。今では長岡市のご当地グルメとして全国的な知名度を誇るほど。その味を引き継いだ「レストラン ナカタ」の会長で、洋食ひとすじ64年の中田さんに歴史や人気の秘密についてお聞きしました。
レストラン ナカタ
中田将富 Masatomi Nakata
1940年、長岡市生まれ。中学校卒業後、長岡市の老舗洋食店「小松パーラー」で修行し、系列店の「ニューパーラー」をまかせられる。退店後は「ボン・オーハシ」「オーハシ・カレーショップ」勤務を経て、「レストラン ナカタ」をオープンする。スタッフから父のように慕われている78歳。
「洋風カツ丼」を提供するお店の中でも、「レストラン ナカタ」は元祖の味を特に大切にしています。その元祖こそが、中田さんが修行した「小松パーラー」というお店。戦後から2006年に閉店するまで、長岡市民に「洋風カツ丼」を提供し続けた長岡最初の洋食店です。中田さんはこの「小松パーラー」で12年間修行をしました。
中田さんが「小松パーラー」で働きはじめたのは中学校卒業の翌日。それからはずっと厳しい修行時代を過ごしました。店に住み込み、8人が8畳の部屋で寝泊まりする雑魚寝生活。レシピは一切教えてもらえず、調理を盗み見てはノートに控えて覚えたそうです。叱られるときは菜箸で叩かれました。
昭和50年、中田さんは独立し、「レストラン ナカタ」をオープンします。「小松パーラー」でおぼえた「洋風カツ丼」はオー プン当初からメニューに載っていたものの、元祖の「小松パーラー」で洋風カツ丼を提供していたため、「レストラン ナカタ」ではカレーに力を入れていました。しかし、ナカタのメニューから1度もはずされたことはなく45年間ずっと提供され続けています。
さて、「レストラン ナカタ」の「洋風カツ丼」がどんなものかご説明しましょう。お皿の上のライスに、まずは揚げたてのトンカツ。そしてその上にとろみの強い独自のソース。口に入れた瞬間、意表をつく味に驚く人も多いかもしれません。トンカツにかけられるソースはしょっぱいイメージがあるものですが、この「洋風カツ丼」のソースは甘酸っぱさが特徴。ケチャップをベースに、醤油、砂糖等で味つけされ、小麦粉でとろみがつけられています。醤油が入っているのは意外ですが、日本人の味覚に合うよう考えられていて、これが味の決め手になっています。季節によってソースの状態が変わるので、調理の際には細心の注意を払っているそうです。口の中に広がるのは、まろやかで懐かしい味わい。昭和、平成と時代を経てきた昔ながらの「洋食」らしい逸品です。
「長岡市には古くからおいしいものを提供し続ける店がたくさんあるのに、みんなが大型店にばかり流れてしまうのはもったいない。」そんな思いから、あるとき、「洋風カツ丼」に目をつけたNPO団体(特定非営利活動法人ネットワーク・フェニックス)によって「洋風カツ丼マップ」がまとめられました。マップには30店舗近くの「洋風カツ丼」提供店が掲載され、全国的なB級グルメブームに乗って大きな話題を呼んだのでした。実はこのマップを見るまで、周囲に「洋風カツ丼」を提供している店がこんなにたくさんあると知らなかった中田さん。とても驚いたそうです。
「レストラン ナカタ」はテレビ、ラジオ、雑誌等で頻繁に紹介されるようになり、全国ネットの情報バラエティー番組をきっかけに大ブレイク。放送された週末には、店の階段に長い行列ができて店の外まで伸びていたそうです。その影響は1年も続き、関東圏や沖縄など県外からも「洋風カツ丼」を求めてお客さんがたくさんやってきました。その後もテレビやラジオの番組が収録に訪れ、タレントのサインが店内の壁にずらりと並ぶようになったのでした。
「このお店を支えてきたのはスタッフたち。私一人ではやってこれなかった。」と中田さんはスタッフの顔を見つめます。開店当初からのスタッフ風間光子さんは、休日にひとりで出勤して掃除やワックスがけをするほど、お店への愛が強い女性。2代目店長の土田智佳子さんは、調理学校卒業してから自分でカレー店を開く夢のため「レストラン ナカタ」を修業先に選びました。ちょうどお店の跡継ぎが見つからずに困っていた中田さんは、土田さんの腕を見込んでお店を任せることにしたのでした。「2代目店長にもしっかりと洋風カツ丼のレシピを教え込んでいるから、これからも変わらず提供を続けていきますよ。」と中田さんは力強く語ります。「小松パーラー」からはじまった伝統の味は、また次の時代へと受け継がれていくのです。