村上市の中心街から北へ車を1時間超走らせた山間にある「山熊田集落」。熊などを狩る猟師たちが今も活躍する「マタギの里」として知られるこの地に、6年前、ひとりの女性が移り住みました。それまで現代美術家として活動していた大滝ジュンコ(当時はスズキジュンコ)さんです。大滝さんは村上市の地域おこし協力隊を経て、現在は同地に伝わる樹皮製古代布「羽越しな布」づくりの継承者として、原材料となるシナノキの皮の採取から新たな商品の開発まで、日々作業に励んでいます。集落内の空き家を活用して構えたジュンコさんの工房におじゃまし、移住のきっかけから山暮らしの楽しさ、しな布づくりのやりがいまで、さまざまなことをお聞きしてきました。
大滝 ジュンコ Junko Otaki
1977年埼玉県坂戸市生まれ。東北芸術工科大で金属工芸、同大学院で実験芸術を学び、現代美術家として山形市を拠点に活動し国内外で作品を発表。2007年からは長崎県東彼杵郡波佐見町で波佐見焼の旧製陶所を活用した複合型オルタナティブスペース「モンネポルト」の立ち上げを手掛ける。2011年からは富山県氷見市のアートNPO「ヒミング」の常勤職員として同地の持続的な地域おこし型アートの業務に従事。2014年に友人の誘いで初めて訪れた新潟県北・村上市山熊田集落の人々の暮らしに衝撃を受け、移住を決意。翌2015年春から同市の地域おこし協力隊として3年間、同集落を含む地域の生業支援や情報発信に取り組んだ。同集落のマタギの男性と結婚して任期満了後も定住し、現在は一住民として引き続き集落の持続・発展に貢献しつつ、同地に伝わる「羽越しな布」の継承に取り組んでいる。この6月5日に村上市で行われた東京オリンピックの聖火リレーではランナーも務めた。集落の除雪のため、大型特殊免許も所持。
――本日はよろしくお願いします。正直、ここに来るまでの道中は本当に集落があるのか不安を感じながらハンドルを握っていました。
大滝さん:(笑)。大丈夫です、電気もインターネットも来てますよ。電気は2、3年前の冬、大寒波のときに半日以上停電になったことがあったんですが、集落内はすべての家が薪ストーブ完備なこともあり、困っている家庭は皆無でした。「まぁ寒ささえしのげれば何とかなるだろう」って……改めて「ここの人たちは強ぇな」と(笑)。この生きる強さが、私が惹かれて移住した大きな理由のひとつでもあるんですが。
――……それはスゴい。以前は美術家だったという大滝さんが、こちらに来たきっかけや経緯を教えてください。
大滝さん:友人から「マタギと酒飲みしない?」と誘われたのが最初のきっかけです。その友人は以前からジャーナリストとして長くここに通っていました。私は当時、富山県氷見市のアートNPOの常勤職員として働いていたのですが、3・11以来、「アートなんてやっていていいのか」という考えが頭をもたげていて。うまく言葉にできませんが、生きることと仕事をすることの距離が離れちゃっていることにうっすらと疑問を感じていました。そんなぼんやりとした悩みを抱えた中、「今の時代マタギなんて本当にいるの?」なんて半信半疑で誘いに乗ってここに遊びにきてみたら、とてつもない衝撃を受けたんです。
――ほうほう。
大滝さん:来る前は「どうせマタギっていったって観光キャラ的な何かでしょ」なんてナメていたんですが、本当にいる。どころか、みんな生き生きと山の暮らしをしていて、生きることと仕事をすることが直結していて。マタギの方々を含め地域の人たちと接していて単純にすごく面白くて、「自分もこういう暮らしがしたいなぁ」と思ったんです。一方で、集落で高齢化が進んでいる現実も目の当たりにしました。「とっても楽しかったけど、よく考えたらお爺ちゃんやお婆ちゃんばかりで、若い人はほとんどいなかったな」と。「数十年後には残っているのかなぁ」という心配も生まれ、いてもたってもいられず翌年の春には移住して来ちゃいました。
――移住にあたっては、働き口や住居などいろいろハードルもあったと思いますが。
大滝さん:確かにこのへんだと一般的な就職先は林業や土木建設業くらいしかなくて、特に女性にとっては厳しいかもしれませんね。私の場合は運よく、ちょうど村上市がこの地区の地域おこし協力隊を募集していたので、それに応募して採用され、めでたく来ることができました。
――改めて、山の暮らしの魅力とはどういったものなのでしょう?
大滝さん:言葉ではとても表しきれないのですが……ここの人たちって毎日、山を見てその日やることを決めるんですよ。エゴがないというか、自分たちもこの山の一部と考えているというか……人=社会よりも、山=世界そのものを見て生きている。そういうところに惹かれたんだと思います。今の言葉でいうとアフォーダンスって言うんでしょうか。
――「アフォーダンス」……後で調べます(汗)。
――現在従事されている羽越しな布についても教えてください。まずこれ、原材料は木の皮なんですよね?
大滝さん:そうです。シナノキという樹木の皮の内側を使うのですが、その部分は1年でちょうどこの時期、梅雨の2週間ほどの期間しか幹から樹皮が浮かず剥げないので、その間に1年分をすべて採取するんですよ。それから完成までには20以上の工程を経ますが、そのすべてがこの山、自然なくしてはできないことで、原始的かつ超非効率的です(笑)。しな布は日本最古の布とも言われていますが、SDGs的な価値観が重視される現代においては、むしろ時代の最先端をいっているといえるかもしれません。
――なるほど。本腰を入れて取り組むことになったのは?
大滝さん:もともとこの村でしな布づくりは女性の仕事で、山間部で田畑の少ないこの村の家々にとっては、いざというときの「へそくり」づくりという側面もあったとのことです。かつては家々で営まれていたものが、現在は集落に入ってすぐのところにある「さんぽく生業の里」という施設に集約されているのですが、現役の織り手はわずか3人しかおらず、そのうちひとりは70代後半で、ふたりは80代。「山の暮らしを学びたい、後世に残したい」と考えてここにやってきた私にとって、そのうちの大きな仕事のひとつであるしな布がそういう危機にあることを、見て見ぬふりはできませんでした。とはいえ最も年の近い人でも70代後半、やがて伝統の継承という重い仕事を一人で背負うことになるかもしれないということに逡巡はありましたが、「やれるうちに技術の習得だけでもさせてもらわなきゃ」と腹を決めました。
――現在は先に挙げた「生業の里」ではなく別の一軒家に工房を構えていますが、その理由は?
大滝さん:いろいろ理由があるのですが、端的に言えば、将来的な持続のためのリスク分散、でしょうか。生業の里だけだと、仮にあそこがやっていけなくなったときに、ここのしな布自体が途絶えてしまいかねません。そうならないように、別の拠点も作っておきたかったんです。幸い、私のこういった考えに共鳴してくれた周囲の協力もあり、織り機などの器具を揃えることができました。
――実際に従事してみて、いかがですか。
大滝さん:とにかく体で覚えるしかないです。こういうのは、文書とかで残しておいても絶対に再現できませんからね。また、それだけに、織りはそのときの精神状態が如実に出ます。昔は「家でケンカしているときは絶対に織るな」と言われていたらしいですが、まさにそうです(笑)。逆に、無心になって織ると、すごくきれいにできます。この工房には、縦糸が固定された一般的?な高機だけでなく、縦糸も腰で動かす居座機(いざりばた)というものもあるのですが、これがまたすごい代物で。うまく織れればより立体的な表現ができるのですが、織っている最中は、なんというか、エヴァの操縦ってこんな感じなのかな?ってくらい難しくて。
――(笑)。
大滝さん:高機で織っているときも含め、というかここでの暮らし全体がそうですが、人間以上の何か大きなものと交信しているような気持ちになります。
――新商品もいろいろと開発されていますね。なんでもマスクは花角県知事も愛用しているとか。
大滝さん:知事がこのマスクを着けてテレビに映ったときは嬉しかったですね(笑)。先ほど述べたように、環境保全、SDGsの観点からの需要にも応えられればと思っています。ただ、私も以前美術家として作品を世に出していましたが、しな布に関しては、いくら自分が原料の採取から織りまで関わっているとしても、不思議と「自分の作品」という感覚はまったくないんですよね。
――今後の展望はいかがですか。
大滝さん:ここでの暮らしも7年目になり、私のやることがみんなから褒めてもらえる、面白がってもらえる機会も増え、信頼感を得られてきています。……実はこの春、この工房の隣の空き家に、知人の美術家も移住してきたんですよ。
――そうなんですか。それは素晴らしい!
大滝さん:彼もマタギに魅せられて、以前から通ってはいたんですが、私がこの地域での彼の身元保証人みたいなもので(笑)、私の知人だからみんなも安心できる面はあるだろうし、私も相談されればここの人や土地をリスペクトしてくれるかどうか判断できるし。「もっと呼んでくれ」という声も聞くので、こういう面でもさらに村の役に立てたらな、と。ここにはまだまだ私も知らない伸びしろがたくさんあると思うので、もっと楽しくしていきたいと思っています。
――なるほど。本日はありがとうございました!
山の暮らしや魅力について終始、楽しそうに話す大滝さん。自分の生き方を自ら選んだ人ならではの強さをひしひしと感じると同時に、本文にある通り自らも村=山=世界の一部として、エゴのカドが取れた清々しさも湛えていました。ここでの暮らしを満喫している様子は、下記SNSからも伝わってきます。今回はいろいろと学ぶことの多い取材でした。
大滝ジュンコ