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村上牛専門店「美食や やま信」の遠山さんは、笑顔を忘れない。

今では全国でも知られるブランド牛となった「村上牛」。ここまで認知されるようになった背景には、村上牛専門店「美食や やま信」の社長である遠山さんの地道な努力がありました。今回は遠山さんに、「やま信」をはじめてからのことやお店を続けてきて思うことについて聞いてきました。

 

 

美食や やま信

遠山 信也 Shinya Toyama

1970年村上市生まれ。「株式会社 やま信」代表取締役社長。父親が経営していた「総合食品遠山」を引き継ぎ、平成元年頃に村上牛を扱う専門店「美食や やま信」へと転業。

 

豚肉文化が強い新潟で立ち上げた、和牛の専門店。

――まずは「やま信」の歴史について教えてください。もともとはお肉屋さんじゃなかったと聞きました。

遠山さん:1969年から「総合食品遠山」っていう名前で親父がやっていました。お肉もあるけど野菜とかも売っている、ちっちゃなスーパーみたいな感じでした。

 

――「やま信」という名前になったのはいつからなんですか?

遠山さん:平成元年とかだったと思います。ちょっとずつ酒とか野菜の割合を減らして、最終的にこんな感じになりました。

 

――そのときはどんな考えがあって、お店からお酒や野菜を減らしていったんでしょうか。

遠山さん:足し算みたいにいろんな商品を置いていると、スーパーとかコンビニとかとガチンコなっちゃうじゃないですか。勝てるわけがないから、商品を絞って特化した立ち位置に持っていこうとしたんです。親父は冷蔵庫があればそこにみんな溜め込むような人で、そうすると廃棄ロスが出てしまう。だから冷蔵庫をどんどん捨てたんです。肉は生ものだから消費期限が短いし、支払いも早いんですよ。

 

 

――いろいろな商品を扱うお店から、お肉屋さんへと切り替えることにされたんですね。

遠山さん:ただ鳥インフルエンザとか狂牛病とか、いろいろあったじゃないですか。あのときに日本のお肉屋さんがかなり潰れたんです。メディアで流れている、牛がよたよた歩くような映像を見ちゃうとやっぱり食べられないとかで、売上もどーんと下がって。その頃は鶏肉とかも扱っていたんですけど、最後のチャレンジで村上牛一本勝負でやっていくことにしました。

 

――そのときは村上牛って、まだ今ほど注目されていませんでしたよね。

遠山さん:村上牛がブランド化されたのが平成元年なんですけど、そのときは誰も手掛けていませんでした。それに新潟県って豚肉社会で、当時牛肉はほとんど食べられていなかったんです。

 

 

――せっかくブランド牛になったのに、地元では注目する人が少なかったんですね。

遠山さん:逆に関西だと、あんまり豚肉を食べないんですよ。カツもカレーも、何でも牛なんです。関西だと肉まんを「豚まん」というじゃないですか。それはみんな普段、豚を食べないからなんですよね。だから大阪の近鉄百貨店とかによく行って、村上牛を販売していたんですよ。

 

――なるほど。最初は地元ではなくて、牛肉に親しみのある地域で営業をはじめられたんですね。

遠山さん:今はこっちでもみんなが村上牛を知ってくれていますけど、当時は「なんでそんな誰も知らない肉を売っているんだ」とか「なんでこんなに高いんだ」とか、お叱りの言葉もけっこうありました。焼き鳥が1本45円で売られていたときに、うちは1本500円で売っていましたから。

 

全国をまわって、村上牛の魅力を発信し続けた「やま信」。

――厳しい言葉を受けても営業を続けたのには、村上牛に対する自信みたいなものがあったんでしょうか。

遠山さん:自信なんてありませんよ。洋服でも安いものがあれば高いものもあるじゃないですか。だからまずは富裕層の方に知っていただこうと考えました。「大新潟まつり」という団体に入っていて、そこがイベントを仕掛けてくれるので全国あちこちに行きました。

 

――たくさん参加した中でも、印象に残っているイベントはありますか?

遠山さん:大阪で「北陸四県味紀行」っていう物産展があって、新潟、富山、石川、福井の4県で戦うんです。新潟からは50社ぐらい出店していましたね。石川のきんつばには負けたんですけども、1週間で500万円以上売り上げました。米炊きで忙しくて、寝る時間も3時間しかとれないくらい(笑)

 

――大盛況じゃないですか!

遠山さん:イベントが終わってからも地元のメディアが毎日来てくれましたし、県外から百貨店のバイヤーが来て「今度うちでも販売してくれませんか」って。そこでたくさん売り上げると、バイヤー同士のネットワークでうちのことが広まって、あちこちに行けるようになりました。それで比較的全国の方に村上牛を知っていただけるようになったのかなって思います。

 

 

――順調に知名度が上がっていったわけですね。全国をまわっての営業活動は大変じゃありませんでしたか?

遠山さん:全国へ行ってお客さんに知ってもらえるのは楽しかったです。名古屋で出店したときに買ってくれたお客様が、名古屋から村上まで車で来てくれたんですよ。子どもさんが高校に合格したお祝いで、こっちに来たらしいんです。「新潟旅行ですか?」って聞いたら「いや、パーキングで仮眠してから来ましたよ」って。高校に入る前の思い出として、子どもに村上牛を食べさせたかったって。それが嬉しくて、「帰りに小腹が空いたら食べてください」って、メンチカツとか渡して(笑)

 

――お客さんも嬉しかったでしょうね。お肉を買うだけじゃなくて、店内の席で牛丼とか焼肉を楽しめるところもいいですよね。

遠山さん:最初は席なんてなかったんですよ。でも全国に行って販売していると、県外の方がお弁当を買いに来られるようになったんですね。長距離ドライブの後なら、ゆっくり食べていきたいじゃないですか。それでDIYをして座敷を作ったんです。床の板も自分で貼って、お店の前の小屋も自分で建てたんですよ。

 

辛いときこそ美味しいものを食べて、みんなで笑顔になれたらいい。

――村上牛の専門店を経営されていて、大変なのはどんなことですか?

遠山さん:最近はコロナ禍の影響があったり、高齢化で牛を育てる方が少なくなって、出荷頭数が減ったり。いろんな問題が最近出てきていて、うちとしてもどう動いていいか分からないんですよね。4等級と5等級だけが村上牛なので、切ってサシを見てみて、3等級だと新潟牛になっちゃうんですよ。だから急に「欲しい」と言われても、その肉が村上牛になれるかは分からない。それでお歳暮の時期にA5等級の村上牛が1頭も出なかったことがありました。

 

――そんなこともあるんですね……。

遠山さん:まさか1頭も出ないとは思いませんでしたね。あるかどうか分からないっていう、やりづらい商売なんです。鳥インフルエンザとか狂牛病の影響も経験して、これからもいろんなことを乗り越えていかなきゃいけないんだろうなと思います。

 

――辛いことがたくさんある中でも、遠山さんはお店の運営を楽しまれているように感じます。

遠山さん:笑顔を売っていればいいことがあるさっていう(笑)。この3年間は本当に辛かったですよ。でもいい経験になりましたね。最近は海外の方がちょっとずつ増えてきて、この前は香港のYouTuberの方が撮影していきましたし、イタリア人の方は「ボーノ」って言って出ていかれて。いろんな出会いがあって飽きないですよ。

 

 

――お店の外の小屋でも、遠山さん自ら店頭に立ってコロッケや串を売っていらっしゃいますよね。

遠山さん:お客様の車のナンバーを見ていると、お盆時期とかは福岡や沖縄から来る方も増えるんですよ。それで「福岡の百貨店は3回ぐらい販売に行きましたよ」とか「旭川に行きましたよ」と言うと喜ばれるんです。そういうつながりで「村上牛」という言葉を覚えてもらえればいいなって。あんまり「売りたい売りたい」とは思わないんです。逆に損しているときもありますから(笑)。ガソリン高いのに申し訳ないなって、遠くから来られると思わずサービスしすぎちゃう。

 

――お客さんひとりひとりとの出会いを大切にされているんですね。

遠山さん:なんでもご縁なのでね。若いときはそんなことなかったですよ。いくら儲けたかとか、そんなんばっかり(笑)。でも人間ってひとりじゃ無理で、みんなに助けられているんだなってコロナ禍で分かったので、辛いけど、笑っていればいいことがあるだろうって。なんでもいいから美味しいものを食べて、笑顔になろうよっていうことですね。

 

 

 

美食や やま信

村上市飯野3丁目2-1

TEL:0254-52-2651

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