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僕らの工場。#39 全国で2ヵ所しかない墨壺作り「壺静たまき工房」。

三条市に工房のある「壺静たまき工房」は、長年伝承されてきた技術で墨壺を作り続けている工房です。今日は墨壺職人の田巻さんに、職人になるまでの経緯や墨壺に対する想いについていろいろとお聞きしてきました。

 

壺静たまき工房

田巻 勇一 Yuichi Tamaki

1948年三条市生まれ。クラフトフェアというイベントを開催するのが楽しみで、毎年15回程度県外で出展している。

 

戦後復興で建築道具が足りず、作れば売れる時代があった。

――壺静さんが創業したのはいつ頃ですか?

田巻さん:親父が独立したのがだいたい1945年くらいで、私は二代目になります。「壺静(つぼせい)」っていうのはうちの昔からの屋号で、墨壺を作っているところっていうのはだいたい「坪○○」っていうふうに屋号をつけていました。ちなみに、この壺を使うのは私のところだけで他は全て坪を使用しています。

 

――他にもたくさん墨壺を作っている工房があったんですか?

田巻さん:三条エリアは全国で一番多い地域だったと思います。元々は関東の方が主流だったんですけど、新潟の特に三条エリアでは明治頃から始まって大正あたりにだんだん盛んになっていきました。当時は作れば売れるっていうような時代で、その中でも三条は早めに機械化していました。手間のかかって力のいる荒彫りっていう作業が全部機械に任せられるようになって効率化することができたのも大きく影響したみたいですね。

 

――じゃあ、機械を使わないと間に合わないような状況だったんですね。

田巻さん:親父がやっている時代は、問屋さんが何人も毎日来て、墨壺ができたらすぐに買っていくような感じでした。とにかく戦後は物がない時代だったので、墨壺に限らず道具関係は全部そうでしたね。戦後復興で住宅もどんどん建てていた時代だったので、大工道具を求めている人っていうのは多くいました。

 

 

――田巻さんは小さい頃から家業を継ぐ気持ちはあったんですか?

田巻さん:年がら年中、もう生まれたときから親父の仕事姿を見て育っていたので自然と自分もこの仕事に就くんだろうなって思うようになりました。当時は親が何かしていたら、長男はそれを継ぐっていうのは当たり前の時代でもありましたね。まわりもみんなそう思っていたし、ほとんど洗脳みたいな感じでしたね(笑)。何の迷いもなかったです。

 

――お手伝いとかもされていたんですか?

田巻さん:昔はほとんどが自宅兼工場っていうところが多くて、手伝い始めたのは中学生くらいからでした。本格的に工房に入ったのは高校卒業してからです。最初の頃は実用道具専門で、定番のものは同じようにただ作る作業ばかりでしたね。彫りはその後から始まりました。

 

――彫りがない時代っていうのもあったんですね。

田巻さん:彫りは装飾になるので、彫りが入っているものは使い勝手としては使いづらくなります。ただそれよりも、大工さんが「俺はこういうものを使っているんだぞ」っていう見栄の部分を大事にする要望がでてきて装飾が増えていきました。

 

 

――実用的な機能に、見た目のプラスαが求められるようになるわけですね。

田巻さん:おそらく明治終わり頃から大正にかけてだと思うんですけど、最初は小さな動きだったのが、まわりもそれを真似し始めてどんどん広がったっていうのは聞いたことがあります。うちとしては叔父が最初に彫りを始めて、私が教えてもらったのは20歳過ぎくらいの頃でしたね。

 

――木もかなり硬い種類のものを使われているんですよね。

田巻さん:ケヤキを使っています。実際に作るときは一度水につけて表面を柔らかくしてから作り始めます。でも硬くなってきたからといって何度も水につけると木は収縮して割れてしまうので、作り始めたら一気に作らなくてはいけないんですよ。木材自体も丸太で仕入れて製材にしてもらうんですが、そこから4~5年は乾燥させないと使えないんです。

 

――木を使うからこその作り方みたいなものもあるわけですね。

田巻さん:ただうちが彫りを始めてから結構すぐに、プラスチック製の墨壺が出てき始めました。樹脂だけど鶴亀もついているし、木製に比べるとものすごく安く作れるわけです。最初の頃は性質が悪くてすぐ壊れていたんですけど、改良が進むにつれて樹脂製品へ需要がどんどん流れていってしまいました。その頃から墨壺の受注も減っていってしまうんですよ。

 

どんなに厳しい状況でも、続けていきたいという想い。

――そのときはどんなことを考えましたか?

田巻さん:当初はすぐ元に戻ってくるだろうくらいに思ってそんなに脅威は感じなかったんですけど、それがなかなか元に戻らなかったですね。まわりは墨壺から業種転換したところがあったり、木製をやめて樹脂に転換してプラスチックで作り始めたところなんかもありました。

 

――それでも田巻さんは木製にこだわったわけですよね?

田巻さん:私はずっと墨壺業界しか見てなかったし、当時の自分にとっては墨壺がすべてだったんです。プライドや意地もあって、せめてうちくらいは最後まで残っていたいなと思いました。今ではもう全国で2件だけになってしまってますね。腕の悪いやつが残ったとは言われないように、今ではそういう想いでやっています。

 

 

――あとを継ぐ方はいらっしゃらないんですか?

田巻さん:後継者も今はいないですね。この仕事をしても食っていけないからなかなか難しいですよ。宮大工さんとかだと、こだわって彫刻の墨壺使われている方見ますけど、現在使われている墨壺の大半はプラスチック製です。それに今は図面さえあれば工場でプレカットできるから墨を引く必要がないわけです。現場ではもう組み立てだけなので、墨壺自体の必要もなくなってきているし、墨壺を知らない人もだんだん増えてきています。

 

――こんなにすごい技術が途絶えてしまうのはもったいないですね。

田巻さん:PRとか技術を残していくための努力はずっとやってきています。十数年前から「クラフトフェア」っていうイベントの立ち上げに携わっているんです。そこに墨壺を出したり県外にも持っていったりしているんですけど、そうすると昔大工だった人とか、懐かしがって見にきてくれたり、たまにぽつんと買ってくれる人もいるんです。

 

 

――作品として残すというのもひとつの伝承方法なのかもしれないですね。

田巻さん:子どもたちには生まれた年の干支が彫ってある墨壺をそれぞれ「子」「辰」「巳」とひとつずつ渡しています。今でもたまに生まれた年の干支を彫って欲しいっていう要望もあります。一般的な木工の仕事を続けながら、なんとか自分の代までくらいは残していきたいなという気持ちでこれからも続けていきたいですね。

 

 

 

壺静たまき工房

TEL:0256-35-4029

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